第37話 Squad
「御影さん、最近ずっと遅くまで研究室に残っていますよね? マシューや玲奈ちゃんと一緒に。また私を仲間はずれにして。私もSquadの一員ですよね? 違いますか?」
「いえ、みつきさんあってのチームですから、もちろん仲間の一員です」
「ですよね。 だから、何三人でこそこそやってるの? ってマシューを問い詰めてやったんです。そしたら、お母様のことだって。話を聞いたら、ここは私の出番じゃないかな、と思って来てみたら案の定、御影さんがまさにその独り言を……。やってみましょうよ。私にも力にならせて下さい!」
そう言って、みつきさんは座っている僕を後ろから抱きしめてくれた。
「私ね、御影さんが朝まで一緒に眠ってくれたおかげで、人に抱きしめられた時の安心感を、幸せな気持ちを、思い出すことができたんです。なので、今日はそのお返しです」
「みつきさん……」
「ほら、一緒になら上手くいくような気がしませんか?」
「気が……します……。でも、本当にいいんですか?」
「はい、もちろん。私もSquadの一員ですから」
面会時間の午後九時を過ぎ、九時半になった。
姉夫婦は真面目な性格なので、いつも面会時間が終わるまでには帰るようにしている。
念の為、入出時に氏名を記入しなくてはならない面会者ノートに名前を書く時、姉が八時五十分に退出していることを確認した。
廊下を進み、母の部屋の前で「治也だけど入るよ」と言ってドアを開けた。
酸素マスクをした母が、こちらの方を見て小さくうなずいた。
骨の形がわかる程に小さくなってしまった母。
ベッドサイドの椅子に座り、その手を握った。
肌は黒ずみカサカサで、少し力を入れすぎると折れてしまいそうだ。
気付くと母は、じっと僕の顔を見つめている。
「今のうちに、この子の顔をちゃんと見ておきたい」
ふと、母がそう思っているような気がして、涙が出そうになった。
必死で、それを堪える。
今日は泣いている暇などないのだ。
「お母さん。これから話すことを、しっかり聞いて欲しいんだ」
母は僕の顔を見つめたまま、ゆっくりとうなずいた。
「前にも言ったけど、今、僕は仲間と一緒に新しい抗癌剤を研究していて、その薬は驚異的な力を持っているんだ。もしかするとこの世から癌を一掃できるかもしれない、とまで思っている。でもそれはまだ研究の途中で――」
母が、握っている僕の手を数回続けて引っ張った。
「こっちへ来いってこと?」
うなずく母親の肩口まで顔を近づけた。
「使って……」
マスク越しの母の小さな声、聞き取ることが難しい。
僕はマスクを母の顔から少しだけ持ち上げて、その口元に耳を寄せた。
「治也の作った……、使って、欲しい」
「でも、もしかしたら……、容態が悪くなってしまうかも……」
母は大きく深呼吸した後、懸命に言葉を作った。
「治也の薬……、試して……、死にたい」
もうどこにも力を入れることのできない母、だがこの時の母の目は、僕に決意をさせるのに十分な力を持っていた。
「ありがとう、お母さん……」
再び自分の気持ちを必死に抑え込み「じゃあ準備するから待っていて」と母に伝えた。
スマートフォンをポケットから取り出し、みつきさんにメッセージを送る。
【消灯になったら来てください】
みつきさんは、夕方からお母さんの部屋で待機してくれている。
消灯は十時で、十二時前後にはスタッフの見回りがある。
結果が悪かった時のことを考えると、みつきさんの関与を第三者には知られたくない。
みつきさんも、玲奈と同様、僕の性格をわかってくれているので、自分が庇われることには抵抗を示さないでくれた。
消灯を告げる館内放送があった後、廊下の電気が一段暗くなった。
僕は部屋の入口の扉を開け放しにした。
この施設では基本、時間による生活の制限はないのだが、皆、消灯後は自室に戻る人がほとんどで、スタッフの数も各階二人ずつとなる。
みつきさんは、この施設の利用者であるお母さんの家族だから、廊下を歩いているところをスタッフに見られても何の差し支えもない。
だが、この部屋に入る姿だけは、見られたくないところだ。
消灯から十分後、何の音もさせずにみつきさんが入ってきた。
そして母の傍まで近付いて「こんばんはお母様」と丁寧に頭を下げた。
それを見た母は何故か嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあお母さん、早速だけど今日は細胞分裂を……、いや、傷付いた組織が早く治るようになるウィルスを打つからね」
小さく、だがしっかりとうなずく母。
「このあと、四日後、七日後、十日後に抗癌剤を注射するからね」
再び、母はうなずいてくれた。
「じゃあ今から、腕に注射するよ。ちょっと痛いかもしれないけど、今日のはすぐに済むから動かないでね」
再びうなずく母を見て、僕はみつきさんを母の左側に呼び寄せた。
みつきさんは、母と目と目でうなずき合って、母の袖を肘が出るまでめくり上げた。
僕はその間にカバンから翼状針の付いた注射器を取り出した。
細いチューブの先に持ちやすいよう二枚の翼が付いている針で、これをすでにOKOGE Type Squadを入れた注射器に装着し持ってきた。
みつきさんは母の上腕部に駆血帯というゴムチューブを巻いて、右手で血管の膨らみを探っている。
血管が出にくいのだろう、「すみません」と言ってから母の腕を二三度軽く叩き、再び血管の場所を確認、アルコールを含ませた酒精綿で消毒をした。
「じゃあ、お母様、今から注射しますね」
そう言ったみつきさんに、僕は注射器を近付けた。
チューブの先の翼状針を持ったみつきさんは、針先のキャップを外し「じゃあ、チクっとしますので」と言うと、間髪入れず母の前腕内側に針を突き刺した。
母は、今まで苦しい治療に耐えてきたせいか、針を刺されてもピクリともしない。
赤い血がチューブの中に逆流してきた。
みつきさんはすぐさま、締めていた駆血帯を弛め、「入りました」と僕に伝えた。
それを聞いた僕は、注射器の押し子をゆっくりとそして最後まで押し込んだ。
「みつきさん、針先に気を付けて! 釈迦に説法だけど」
もし、その針を自分の指に刺してしまったら、みつきさんが感染してしまう。
「はい、気を付けてやります」
そう言って、みつきさんは抜いた針の先端に先程のキャプを慎重に取り付けて、そっと僕に手渡した。
これで、みつきさんが母に針を刺したのは事実なのだが、未認可の薬剤を投与したのは僕ということになる。
これは、僕が考えた苦肉の策で、みつきさんも渋々了承してくれた。
二人で母の顔をじっと見た。
母はキョトンとした顔をして、もう終わりなの? と言っているかのようだ。
しばらくの間、二人して母を見つめていたのだが、特に大きな変化は見られない。
「みつきさん、ありがとう。後は僕が見ていますから」
そう言ったのだが、「もう少し居させて下さい。何かあった時に少しくらいなら対応できるかもしれませんし」と耳元でささやかれた。
五分経ち、十分が経って、母がゆっくりと目を閉じた。
僕は、もしかして意識を失ったのでは……、と不安に駆られ母の顔を覗き込もうとしたのだが、ずっと母の手首を持って、脈を診ているみつきさんに止められた。
「大丈夫です。眠られただけです」
母の手首に右手を当てたまま、みつきさんが左手で僕の手を握ってくれた。
言葉だけではなく、その手からも「大丈夫ですよ」が伝わってきた。
問題が起こるとすればPAA with sugar投与時で、今日はおそらく大丈夫だろう、と思ってはいたのだが、弱っている自分の母親に、人体に一度も投与したことのないウィルスを実際に打つのには、物凄い恐怖を伴った。
死んでしまったら、どうしよう。
母がおかしくなってしまったらどうしよう。
この恐怖からは、当分の間、逃れることはできないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます