第57話 二度と会うことのできないところへ

 間に合った。


 母の心電図モニターは一定のリズムで音を出していてくれた。


 枕元に近付いて母の顔を覗き込んだ。


 目を閉じ眠る母の乾いた唇の皺に、血がこびりついていた。


「お母さん、どうなったの?」


 ベッドサイドの椅子に座り、母の右手を握っている姉にそうたずねた。

 顔が憔悴しきっている。


「今日は体調も結構良くて、トイレに行きたいと言うから介助したの。そうしたらほとんど自分ですることができて。できた、って嬉しそうな顔をして。でもベッドに戻ろうとしたら途中で気持ち悪くなってきたみたいで、ベッドの横で血を……」


「それで?」


「すぐに、コールを押してスタッフの人に来てもらったんだけど、ここでは対処できないってことになって救急車を呼んでもらったの」


「そっか……。先生はなんて?」


「食道静脈瘤からの出血だろうって。まだ出血が続いているかもしれないから、今日か明日、危ないかもしれないって……」


 そう言うと、姉は顔を手で覆ってしまい、肩を震わせている。

 必死で声を出さないようにして。


 食道静脈瘤は肝硬変の代表的な合併症の一つだ。


 母は抗癌治療の経過を追うために定期的な検査を受けていたから、食道静脈瘤ができていることは分かっていたはずで、それなら何故出血する前に予防的な処置をしなかったのだろう。

 確か、内視鏡で出来るはずなのに。


 でも、今の姉にこれ以上話を聞くのは、やめておいた方がよさそうだ。


 また、姉は自分を責めてしまうかもしれない。


 血圧は低く、脈拍が速い。


 きっと血液が足りていないんだ。


 だから、輸血をしている。


 でも、もしまだ静脈瘤からの出血が続いているのだとしたら……。


 頭の中でわずかな希望も見い出すことができず、ただただ母の左手を握っているところへ、義兄と姪の彩乃が駆けつけてきた。


「おばあちゃん!」


 四人で母を取り囲んだ。


 彩乃の声が聞こえたのか、ゆっくりと母が目を開けた。


 この状況は、母に、自分の死期が近いことを悟らせてしまうのではないかと心配したのだが、母は微笑を浮かべながら、少しずつ首の角度と目線を変えて、四人それぞれの顔をしっかりと見ていった。


 見終わると母は、満足そうな顔をして、ゆっくりと目を閉じた。


 そしてその表情のまま、母は再び眠りに入った。


 様子を診に来てくれた先生も「穏やかな顔をされていますね」と言ってくれて、「前もってお聞きしているのは、救命処置はしないという方針でしたが、それでよろしいですか?」と最終確認をしてから帰って行った。


 もうすでにわかっていたことなのだが、医師のその言葉に、いよいよダメなのだと再確認させられた。



 夜に入ると母の血圧は徐々に落ちていった。


 静かに眠る母。


 時々、息が止まってしまっているのではないかと心配してしまう程、穏やかな眠りだった。


 母の認知障害は血液内のアンモニア濃度によって、軽快増悪を繰り返した。


 そのせいで、意識が清明な時ほど、自分がおかしくなってしまったことに強く落ち込み、自分のせいで子供たちに心配や迷惑をかけていることをとても悲しんでいた。


 その辛かった日々がようやく終わり、母は楽になれるのかもしれない。


 そう思いながら母の顔を見ていた時に、突然、母が目を見開き、大量の血を吐いた。


 それは、吹き出すと言っていい程、真っ赤な血を大量に。


 すぐにナースコールを押したのだが、夜間の巡回にでも行っているのか応答はなかった。


 とっさに、僕の頭の中に以前母が嘔吐した時の光景が浮かびあがり、反射的に母を横に向け、吸引器を使って母の口の中の大量の血液を吸い出そうとチューブを差し込んだ。


 吸っても吸っても、喉の奥から溢れ出てくる血液。


 咳き込む力も残っていないのか、母は目を見開いたまま、じっと僕の顔を見つめている。


 口の中の血液を必死に吸い出し、母が喉の奥に残っていた血液をなんとか飲み込んで、ようやく息ができるようになったその瞬間、


母が「ごめんね」と声を出した。


「何で謝っているんだよ」そう言っている間にも、また口の中は血液で溢れかえり、母は再び話せなくなって、息ができなくなって。


 必死に血液を吸い出しても、奥から出てくる量に追い付かなくて。


 僕が一瞬チューブを引き抜いた時に、母が口を動かした。


「ありがとう」と。


 母の顔を見なおすと、母は口から血を溢れさせながら、それでも笑顔を作り、もう一度声にならない「ありがとう」を言って、


 二度と会うことのできないところへ行ってしまった。






 初七日を終え、といっても告別式の後その当日におこなったのだが、久しぶりに家に帰った、といってもみつきさんの部屋で、僕の部屋はもう物置と化している。


 玄関の扉を開けて、靴を脱いだ。


 あまりにもいろんな思いが次から次に押し寄せてきて、顔全体がボーっとして、浮遊感に包まれているのに周りの空気に圧迫されているような感じがして、

 動けなくなってしまった。


 みつきさんは「お帰りなさい」と出迎えてくれたのだが、そんな僕の姿を見て、次にかける言葉を見つけられずにいるようだ。


 ご愁傷様です、と言うのが正しいのだろうが、そんな言葉をかけたところで何の意味も持たないと、感じたのかもしれない。


 今日までの二日間、固く冷たくなってしまった母と、姉の家で一緒に過ごし、数時間前に母の焼けた骨をこの手で拾い集めてきたのだが、まだそれを現実として受け止めきれずにいる。


 みつきさんは、そんな僕の右手を取って、廊下に引っ張り上げてくれた。


 喪服を脱いで。


 お風呂に入って。


 缶ビールを飲んで。


 そのまま、みつきさんの胸に抱かれた。


「母は血を吹き出して死んだんだ。血を吹き出して息ができなくなって。母は癌になってしまった父に一生懸命尽くして、僕たち姉弟にめいいっぱいの愛情を与え、育ててくれた。何も悪いことをしていない母に、人に愛を与え続けてきた母に、そんな、めちゃくちゃ怖くて、めちゃめちゃ苦しい思いを、人生の最後にさせるなんて。僕はもう、神なんて一生信じない」


 みつきさんは何も言わず、背中を撫でてくれている。


「でもね、母があんな辛い思いをしたのは、僕のせいなのかもしれない」


「えっ? どうして?」


「僕が新薬を使いさえしなければ、母はあの時あのままで、きっと静かに死ねたんだ。たかだか一年長く生きられたからといって、何かをできたわけでもないし、最後にあんな辛い思いをさせてしまった」


「御影さん。それは絶対に違いますよ」


「どうして、そんなことわかるの」


「だって、お母様は御影さんのことも、お姉様のことも、お義兄様のことも、お孫さんのこともとってもとっても大好きで、その大好きな方と一年間も長く一緒にいられたんですよ? それってお母様にとっては、どんなに辛いことを我慢してでも手に入れたい最高の幸せなんじゃないですか? それに、これは想像ですけど」


「なに?」


「可愛い息子が一生懸命作った薬を自分に使ってもらえたことを、そして、その薬が絶賛されて、自分の息子が世界中の人たちから称えられるところを見られたのです。お母様はきっと、最高の人生だった、と思って亡くなられたのだと思いますよ」


 涙が止まらなくなった。

 母が本当にそう思って逝ってくれたのなら。

 どうかそうであって欲しい。

 最期の「ありがとう」が、母の満たされた思いからの言葉であってくれたなら。


 僕はみつきさんの柔らかな肌を包むパジャマがグショグショになるまで泣き続け、みつきさんはずっと何も言わずに背中を撫で続けてくれた。

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