7.クライネバルトの夕暮れ

 外に出てみると日は傾き、辺りは淡い金色の陽光に包まれていた。

「……おやつ、たくさんもらっちゃいました」

 メリーアンはアッシャータに持たされた紙袋を見る。中には雪の結晶にも似た飴やら色とりどりのマカロンやらを詰め込まれていた。

「完全に気に入られたな。――しかし、わからねぇな。その虎の変貌って奴、なんで起きたんだ? スペアキーを誰か盗んだのか?」

 ディートリヒは難しい表情で考え込み始めた。

「それ以外にも色々考えられるぞ」

 ポケットから煙草の箱を取り出しつつ、ルシアンは肩をすくめた。

「そう、ですか? 鍵は二つだけで、うち片方は紛失。動物たちはあの高い塀の向こうから出ることはなく、雨の日は檻に入れられる」

 片手の指を折り曲げ、アッシャータから聞いた話をメリーアンは一つ一つ確認する。

 箱型ライターで煙草に火を付け、ルシアンはため息を吐いた。

「……お前は時々自分が何者かという事を忘れるな」

「え? どういうことです?」

「幽霊が枠に囚われるな」

「……あ! アッハァ! なるほど、こういうことですか!」

 メリーアンは紙袋をいったん置き、近場にあった壁に半身を突っ込んた。

『肌』を消した幽霊の体はあっさりとモルタルをすり抜ける。半身が壁にめり込んだ形になったメイドに対し、ルシアンはうなずいた。

「そうだ。そういう事だ。それとディートリヒ――じゃなかった、駄犬」

「なんだ? 殺すぞ?」

「貴様、あそこの屋根まで跳べるか」

 ルシアンは煙草を挟んだ指先で、近くにある黄色い壁の倉庫を示した。

 倉庫を見上げたディートリヒは小さく鼻で笑い、ダンッと強く地面を蹴った。その体が高々と宙に舞い上がり、屋根の上に軽やかに着地する。

 屋根の上にしゃがみ込んだディートリヒはそのまま辺りを見回した。

「……なるほど。さっきの屋敷の塀、高さはこんなものか」

「そうだ。魔女街の連中ならば、あの程度の塀を越える事自体はさして難しくないだろう」

「だな。ということは、あの屋敷への侵入はわりと簡単なのか」

 ディートリヒはうなずくと屋根から飛び、軽く宙返りを打ちながら地面へと降りた。

 メリーアンも壁から体を引き抜き、改めて考え込む。

「ええと……つまり幽霊と、身体能力が人間よりも優れてる方ならば侵入が簡単なのですね。それに魔術師と、魔女と――あれ、でもこれって……」

「……そうだ、そういう事だ。よく気づけたな、偉いぞメリーアン」

「わちゃちゃちゃ! やめてください旦那様! 旦那様撫でるのすごく下手!」

「下手とは何だ、下手とは」

「髪が崩れ――いたたたた! 駄目です! こするって感じになってます!」

 手袋を嵌めた手で頭をごしごしと掻き乱され、メリーアンは悲鳴を上げる。

 一方のディートリヒは眉をひそめた。

「おい、主従二人だけで完結してんじゃねぇよ。どういう事だ?」

「えっと、つまりですね。その、あのお屋敷の塀を誰にも気づかれずに侵入できる人ってわりと想像よりもかなり多くて……その……」

 乱れた髪を整えながらメリーアンはぎこちなく説明する。

 その言葉を、『下手』と言われて若干拗ねたように見えるルシアンが継いだ。

「……今のままだと魔女街に住んでいる奴ほぼ全員が容疑者になる」


 日は沈み、藍色の闇が魔女街に落ちた。

 どぎついピンクの明かりが灯るキャバレーの前を通り、怪しい酒場の群れを通り抜ける。

「ここがクライネバルトだ……今はだいぶ散らかってるが」

 先を行くディートリヒが唇を歪めた。

 どこか森の中を思わせる街だった。高い街路樹が並び、その緑の中に埋もれるようにしてダンスホールやカジノなどが建ち並んでいる。

 そしてそこには、大規模な破壊の痕跡が残されていた。

 街路樹の一部が薙ぎ倒され、近くの建物を押し潰している。路面はところどころが剥げ、その下の地面ごと抉り取られている箇所さえあった。

 しかしこんな状態でも、クライネバルトの人々は逞しく暮らしているようだった。

「のろま! とんま! それは向こうに運べと言っただろう!」

「なんだとてめぇ! そのヒョロッこい角をへし折ってやろうか!」

 山羊頭の紳士と、牛の頭を持った大柄な労働者達が怒鳴り合っている。

 向かい側のカフェテラスでは、彼らの諍いに不快そうに尻尾を揺らしながら、猫によく似た紳士達が紅茶を飲んでいた。

「これはディートリヒ殿、ご機嫌麗しゅう。いつになったら工事は終わるんでしょうね」

「よう。どうにか今晩中にケリを付けるつもりだ」

 カフェテラスの紳士に軽く会釈し、ディートリヒは先に進む。

 歩きながら、メリーアンは辺りを見回した。

 見かける住民達のほとんどが、彼らのように動物に似た容姿をした獣人達だ。

 獣人達の眼は、破壊された町の暗闇でも皆一様に煌めいていた。

「……この辺り、獣人の方が特に多く住んでいる場所なんですよね?」

 メリーアンの問いに、ディートリヒはうなずいた。

「ああ。みんな、教会から逃げてきた連中だよ。獣人に限らず、獣と関わりのある奴らは大概ここにいる。東方の狐憑きとか、妙に頭の良い猫とか、あとは俺みたいな――」

「あんれまァ! 幽霊じゃないの!」

 ディートリヒの言葉を遮り、女の甲高い声が響き渡った。

 間髪入れず、派手な緑の衣装に身を包んだ女が慌ただしく近寄ってくる。狐に似た顔をした獣人で、腰の辺りにはふさふさの金褐色の尻尾が生えていた。

 狐頭の女は琥珀色の瞳にメリーアンを映すと、三角の耳を悲しげに寝かせた。

「なんてこと……こんな若い子が! あなた、享年は?」

「え、えーと、十六か、十七歳かと……?」

「まぁ年さえ覚えていないなんて! 一体どんなひどい死に方をしたらそんな悲しい事になってしまうのかしら! ほら、キャンディをあげるわ!」

「あ……ありがとうございます」

 狐頭の女はキャンディの袋を持たせると、ぐっと拳を握ってみせた。

「早く楽園に行けると良いわね! くじけちゃだめよ!」

 励ましの言葉を残し、ふさふさの尾を揺らして狐頭の女は去って行く。

 メリーアンは自分の腕の中を見下ろした。そこには女の渡したキャンディの他に、様々な菓子の袋がある。全てクライネバルトに入ってから渡されたものだ。

「……私、もしかして餓死した幽霊に見えるのでしょうか」

「あー、何かしら不足を抱えて死んだ奴が幽霊になるってのが獣人の考え方でな。だから幽霊見かけたらとりあえず食い物を渡すんだよ。――今さらだけどよ、嬢ちゃん。キャラメルいるか? ちょっと溶けてるけど」

 軍服のポケットを探り出したディートリヒに、メリーアンは慌てて首を振る。もうこれ以上はさすがに持てそうにない。

「さすがにもう結構です……ああ、でもこの先でいただいたらどうしましょう」

「もらっておけば良いと思うぞ。我輩が食う」

 もぐもぐとマフィンを頬張りながらルシアンが答えた。今のところ、メリーアンがもらった菓子のほとんどは彼が消費している。

 新たにチョコレートを口に運びつつ、ルシアンはふと眉をひそめて辺りを見た。

「……しかし、ずいぶん騒がしいな」

「復旧途中だ。仕方がねぇ。……にしてもおかしいな。――おい、なんかあったのか!」

 ディートリヒが自転車に乗っていた一人の男を呼び止める。

 黒猫に似た頭部を持つその男は自転車を止め、通りの向こう側を示した。

「ジャードの奴らだよ! あいつらがハインツのとこに忍び込んでた!」

「なんだと? それでそいつらどうした?」

「もちろんブチのめしたさ、ハインツのとこの兄貴がよ! 一人二人捕まえたかったみてぇだけどあいつら逃げ足が早くて! お前達も気をつけておけよ!」

 去っていく猫頭の男を見送り、ディートリヒは獣のように犬歯を剥き出した。

「……クソッタレ、またあのヤク中かよ」

「あの、ジャードとは一体?」

 いまいち状況が掴めず、メリーアンは恐る恐るたずねた。

 ディートリヒは顔を歪めながら、自分達の来た方向を無造作に示した。

「この近くにいるギャングだ。ここに来る途中にキャバレーとかカジノとかあったろ? あれは全部ジャードのものだ。昔はただのしょっぺぇチンピラだったのによ」

「……相当羽振りが良いようだな」

 遠くにぎらつくキャバレーの光を振り返り、ルシアンが赤い瞳を細めた。

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