13.赤い環の向こう、紫の瞳が見つめる彼方
昨晩の死闘の影響で、暴風跡は滅茶苦茶になっていた。
元から破壊され、散らかった街並みではあった。しかし今は異界から流れ込んだ瘴気の影響で建物が半分溶けていたり、ぼこぼこと泡立っていたり、あるいは肉や骨が形成されつつあったりと、奇妙な変質を遂げている。
「アロイスと戦ったのはここだね。……そして、アロブ=マブが降りたのもここ」
もうなにもなくなってしまった広場の中央に立ち、クラリッサが振り返る。
焼け焦げた石畳は瘴気により変質し、赤い珊瑚のような物がびっしりと生えていた。
その異様な珊瑚礁の下には、アロブ=マブの肌と思わしき白い破片がところどころ飛び散っている。それを見た途端、メリーアンはふと思い出した。
「あの蛮神はどうなったの? あの後の事、あまり覚えていないのだけれど」
「ルシアンがやっつけちゃったみたい」
「旦那様が……」
蛮神を倒すほどの力を持つ存在――改めて、主人の偉大さに心が震える。
メリーアンが感嘆する中、クラリッサがある方向を指さした。
「あたしは向こう側を探してみるよ。何かあったら、すぐに呼んでね」
「えぇ。わかったわ」
クラリッサを見送った後、メリーアンはひとまず幽体化した。
ふわりと空中へと浮かび上がり、辺りを見回す。
上空から見ても、ただ色がごちゃ混ぜの奇妙な街が広がっているだけ。離れていくクラリッサの赤髪以外、動くものの姿は見えない。
「旦那様――!」
上空から声を張り上げ、主人を呼ぶ。
しかし、返事はない。そもそも通常時でも、ルシアンがまともに返事をする気がしない。
メリーアンは肩を落し、ゆるゆると下へと降りていった。
「……やっぱり、そう簡単には見つからないわよね。旦那様ったら、本当に行き先くらい教えてくれれば良いのに」
ただ、今朝のやり取りで彼の考え方が今までよりもはっきりとわかった。
恐らくルシアンは、メリーアンに余計な心配をかけさせまいとしているのだろう。非常にわかりづらい方法で、ルシアンはメリーアンを気遣っている。
問題は、そのやり方がどういうわけか悪手ばかりということだ。
ひとまず実体化すると、メリーアンは歩き始めた。
「愛人さん相手の時は器用なのに……やっぱりメイドって扱いが雑ねぇ。本当、せめて行き先を教えてくれば――っとと」
独り言を呟きながら歩いていたら、躓いてしまった。
とっさに幽体化したため、かろうじて転ばずには済んだ。しかしその拍子に気が抜けて、ヨハネスからもらったバインダーがメリーアンの手をすり抜けてしまう。
「いけない、私ったら――」
地面に落ちたそれを拾い上げようとして、メリーアンはふとある事を思い出した。
メリーアンはバインダーを拾い、辺りを見回した。
瓦礫があちらこちらに転がり、地面はクラリッサの魔法の影響で焼け焦げている。最初にクラリッサと来た時とは様変わりしてしまっているが、間違いない。
メリーアンは広場の中央だった場所を見る。
「……このあたり、だったわよね?」
視線の先――破壊された広場の中央で、アロイスは殺された。
そして瀕死の彼女の手から、ルシアンはロイエリオンの剣は弾き飛ばした。
ちょうど現在、メリーアンが立っている方向に。
そして――一夜明けた今。
「剣が、ない……」
メリーアンはいったんバインダーを地面に置き、赤い珊瑚に覆われた地面を確認した。
しかし、どこにもロイエリオンの剣はない。
一瞬、クズ拾いや物盗りの類いが拾っていったのではと考えた。金目のものがあれば、持ち主の腕ごと持っていくことも珍しくないのが魔女街だ。
しかしメリーアンは額を押さえ、考え込む。
「蛮神のせいで瘴気が濃くなっているから、常人は入れないはず……ガスマスクや浄化の札があっても、きっと辛い……」
眉をぎゅっと寄せ、剣を探しながら思考を続ける。
メリーアンは幽霊だ。呼吸もせず、汗も掻かない。しかし今なら、「嫌な汗を掻く」という感覚が理解できるような気がした。
「なら、誰が持っていったの? 旦那様に深手を負わせたあの剣を……」
金目当てなら、まだいい。
しかしルシアンがいなくなったこのタイミングで、あの剣が見つからない。
メリーアンは虚ろな胸を押さえる。そこに心臓の鼓動はない。
なのに、どうにも胸騒ぎが止まらなかった。
「ともかくクラリッサと一度合流して……」
クラリッサと相談して事を進めた方が良い。
そう判断したメリーアンはバインダーを抱えると、空中からクラリッサを探すため『肌』を消して幽体化した。
しかし、当に浮かび上がろうとしたその耳に足音が聞こえた。
「ああ、クラリッサ、ちょうどいいところに――」
一瞬名前を呼び、メリーアンは違和感に気づいた。
あの友人が歩くときは、いつも護符のシャラシャラという音が聞こえる。
しかし、今はそれが聞こえない。
そして足音も、クラリッサの歩幅よりもずっと大きいような――。
思わずメリーアンが鬼火をまとったその時、聞き覚えのある声が朗々と響き渡った。
「――ああ、こんな所にいたのか! 魔女街の白百合よ!」
「えっ……アッシャータ様……?」
銀の髪、褐色の肌、尖った耳。襟元に輝く銀の車輪を模した飾り。堂々とした足取りで、瓦礫の向こうからアッシャータが現われた。
メリーアンは拍子抜けしつつも左半身から鬼火を消し、実体化した。
「ど、どうやってこんな所に……ここは今、瘴気がすごいんですよ? 普通の人じゃすぐに体が腐ったり、歪んだりしてしまうのに――」
「ハッハッハ! メリーアン嬢、お忘れかな?」
アッシャータは豪快に笑い、厚い胸を大きく張った。
「私はスカード! 私の体にはエルフの血が流れているのだよ。この程度の瘴気ならまったく問題ない! むしろ清々しいくらいだ!」
「そ、それはすごい……」
大げさに深呼吸してみせるアッシャータに、メリーアンは戸惑いつつ感嘆する。
エルフの尖兵であったスカードの肉体は戦闘に特化しており、非常に頑強だったと伝承には語られている。その体質は、どうやら子孫にまで受け継がれていたようだ。
「それで、どうしてこんな危険な場所に?」
「私は君を迎えにきたんだ。覚えているかね? 先日の食事の話だ」
そういえば昨日、そんな話をしたことを思い出す。
魔女街の見知らぬ区画に迷い込み、そこでアッシャータの自動車に載せてもらったのがもう遠い昔のことのようだ。
メリーアンは返答に困り、メイドキャップのリボンを弄びながら言葉を探した。
「え、ええ……覚えております。ですが私、旦那様を探していて、今は――あ! あの、旦那様を見かけませんでしたか?」
アッシャータはよく魔女街を動き回っているようだ。
もしかすると、ルシアンの姿をどこかで見ているかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、メリーアンはアッシャータを見上げた。
すると、アッシャータはやや表情を曇らせた。
その手が首元へと伸び、銀色に輝く車輪飾りの軸をそっとたどる。
「……残念ながら見てはいない」
「そうですか……」
あまり期待はしていなかったものの、落胆したメリーアンはがっくりと肩を落とす。
そこでアッシャータは一度、深呼吸をした。
「……ただ、彼がどこにいるかなら知っている」
「ほ、本当ですか! 旦那様は今、どこに――!」
「ああ……メリーアン、魔女街の白百合。私は悲しい。悲しくてたまらない」
歌うようなアッシャータの言葉に、メリーアンは口を次ぐんだ。
アッシャータは銀色の車輪飾りから手を離すと、メリーアンへと手を伸ばす。
栗色の髪に触れ、アッシャータは悲しげに目を伏せた。
「君を思うだけで、この胸が張り裂けてしまいそうだ」
「アッシャータ様……?」
メイドにあるまじき失礼な行動だったと思う。
しかし嫌な予感を感じたメリーアンは思わず、アッシャータから離れた。
栗色の髪が、アッシャータの指から零れる。
途端アッシャータの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。彼はポケットからハンカチを取り出すと、それで濡れた瞳を拭いながら首を振った。
「嗚呼、美しき死者よ、凍てついた瞳の少女、鼓動を持たぬメイドよ……私は確かに君を可憐に思う、愛しく思う! しかし私には夢がある。私は君に痛みを強いなければならない、それが悲しくてならない!」
アッシャータは目元を拭い、大きく手を広げ空を仰いだ。
濡れた緑の瞳が曇天を映す。
厚い胸を震わせて、アッシャータはさながら舞台役者の如く悲痛な叫び声を上げた。
「英雄達が美女を故郷に残して旅立つように! 大業には犠牲が伴うのだ!」
「……犠牲、とは。なんでしょうか?」
本能が迫り来る不吉を告げてくる。
表情だけは心配そうにして、メリーアンはアッシャータに問いかけた。その意識は、いつでもオールワーカーを出現させられるように右手に向けられていた。
アッシャータはゆるゆると顔を覆い、何度か深く呼吸した。
「――彼は私の屋敷にいる。いや、来るはずだ。今宵は盛大な晩餐会を催すつもりでね。魔女街始まって以来の宴になるだろう」
言いながら、またアッシャータはハンカチで目元を拭った。
そしてその手はごく自然な動きで腰へと伸び、スーツのポケットに差し込まれた。
「――さぁ、我々も共に行こう」
アッシャータがポケットから手を引き抜く。
そこにはハンカチに代わって、赤い輪が握られていた。
石で作られたその輪を見た瞬間、急速に記憶が蘇った。
あれと同じ輪を、確かにメリーアンは見た。
あの――あまたの死者の想念が渦巻く、ゲファンゲネの体内で。
「墓標輪ッ――!」
それを認識した瞬間、メリーアンは念力を作動させた。紫の鬼火が左半身へと灯り、空中に火の玉が浮かび上がる。
しかしそれよりも一瞬速く、アッシャータの手がぐるりと赤い輪を回す。
その瞬間、メリーアンの視界がぐらりと揺れた。
全身の構成霊素が揺れ、形成した『肌』が溶けるように消え去った。
強烈な目眩の中で、墓標輪の赤い輪が大きくなったり小さくなったりした。歪む視界に、出現させた鬼火が墓標輪へと吸い込まれるのが見えた。
自分が立っているのか、倒れているのかもわからない。
狂った五感の中で、ただ引力を感じた。
「ああ――!」
自分の悲鳴が、わんわんという奇妙なこだまを残して遠のいていく。
すがるものを求めて伸ばした手の形が捩れ、赤い環の彼方へと消えていった。
そして、メリーアンはいなくなった。
持つ者のいなくなったバインダーがバサリと音を立てて、地面に落ちた。
「――悪く思わないでくれ」
アッシャータは低い声で言って、メリーアンを取り込んだ墓標輪を見つめた。
赤い輪は、ぼうっと光り輝いている。
「さて……」
アッシャータは襟元に手を伸ばすと、車輪飾りを外した。
シャツを軽くはだけさせると、持っていた墓標輪を自分の胸に押しつけた。
「ぐっ……うう……!」
呻き声と共に、みしみしと肉が変形する音が響いた。
やがてアッシャータは深く息を吐き、自分の胸を見下ろした。
厚い胸板の中央に、赤い輪が埋め込まれている。周囲には回路を思わせる黒い模様が、輪を取り巻くようにして浮き上がっていた。
墓標輪は、完全にアッシャータと一体化していた。
アッシャータは小さくうなずくと、シャツのボタンを留めた。
「メリーアン? どこにいるの?」
クラリッサの声が遠くから響く。
それを聞いたアッシャータは踵を返し、大股で歩き始めた。
歩きながら、自分の胸元に手を当てる。掌の下で、幽霊を取り込んだ墓標輪はかすかに熱を持ち、脈打っているように感じられた。
「すまない、メリーアン嬢――私には、君の力が必要なのだ」
悲しげに目を細め、アッシャータは赤い輪をそっと撫でる。
そしてネクタイをしっかりと締め直すと、まっすぐ前を見つめる。その目にはもはや愛惜の色はなく、足取りはまるで王者の如く堂々として迷いがない。
「……さぁ、行こう。今こそ夢を果たす時だ」
アッシャータは呟き、低い声で笑った。その瞳が、ぼうっと紫色に輝いた。
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