12.青白い女のおもかげを追う

 扉を開けてすぐ、鮮烈な血と腐肉のにおいが幽霊の弱い嗅覚を刺した。

「……え?」

 目の前の光景が信じられず、メリーアンは眼を見開く。

 レッドスパイダーは惨憺たる有様だった。

 洒落た内装には大量の血痕がぶちまけられ、飴色のカウンターは押し潰されている。

 そして、その瓦礫の向こうにアルカは『あった』。

 頭は潰され、さらに胴体も切り裂かれ、漏れ出した臓物に埋もれるようにして千切れた四肢が地面に転がっている。その肉体は急速に朽ちていっているようで、強烈な腐臭をその近辺に漂わせていた。

「ア、アルカさん……」

 思わずその名を呼ぶメリーアンの頭に蘇るのは、黒い影にアルカの頭が潰される様子。

 これは間違いなくルシアンの仕業だ。

 彼が、アルカを殺したのだ。

 君の主人はおれ達を根刮ぎ殺すつもりのようだ――あの言葉は、これを示していたのか。

「な、なんてこと――」

 絶句するメリーアンの耳に、カラカラとドアベルの音が響いた。

「……ああ、ひどいにおいがするな」

 低い声と声と共に、長身を屈めるようにしてヨハネスが店内へと入ってくる。その手には、黒い革表紙のバインダーが抱えられていた。

 メリーアンの姿を見て、ヨハネスは眼を細めた。

「……メイドか。その分だと復元は完了したようだな」

「メリーアン! 大丈夫だったの! ――ちょっとあんちゃん! どいてよ!」

 興奮したクラリッサの声とともに、背中をばしばしと叩く音が響いた。

 ヨハネスが億劫そうな所作で体を脇にどかすと、そこからしゃんしゃんと魔除けの音を鳴らしつつクラリッサが飛びだしてきた。

 メリーアンは実体化すると、駆け寄る彼女をしっかりと抱き止めた。

「クラリッサ、貴女こそ大きな怪我がないようで本当に良かったわ」

「あたしよりメリーアンだよ。右手、大丈夫? あたしが焼いちゃったせいでひどいことになったでしょ。それにあたしの提案のせいで、あんた――」

「大丈夫よ。もうぴんぴんしてるから!」

 メリーアンは腕を曲げ、力こぶを作るように力を込めてみせた。細く、肉付きの薄い少女の腕は特に盛り上がりはしなかった。

 クラリッサはおずおずと手を伸ばし、メリーアンの腕に触れた。

「でも、あたし……」

「無茶はいつもの事よ。本当の本当に大丈夫。これくらいなんともないわ」

 メリーアンはクラリッサの手に自分の手を重ね、にっこりと笑う。

 一方のヨハネスは少女たちのやり取りなどまったく無視して、叩かれた背中をさすりながら壊れたカウンターへと近づいていた。

 そしてアルカの死体を見た途端、彼は面倒そうにため息をつく。

「……やはり、まだ死体が残っている。誰も片付けていなかったのか」

「そうだ……ヨハンさん! アルカさんがその、えっと……」

「知ってる。頭をやったのはルシアンだ。そして、胴体をやったのは僕」

 さらりと凄まじいことを自白しつつ、ヨハネスは残骸の裏側へと回った。なにか湿っぽい物を踏む音が聞こえたが、彼の表情は変わらない。

 それどころかアルカの死体を軽く爪先でどけつつ、彼は棚に並ぶ酒瓶を吟味する。

「いつもならすぐに代わりが出てくるんだ」

「代わり……?」

「ああ。こいつは僕達よりもずっと便利な体をしている」

 ヨハネスはうなずきつつ、彼は緑薬酒とゴブレットを選び取った。

 そしてコートのポケットから銀貨を何枚か取り出し、アルカの傍に置いた。よく見ると、同じようにいくつかの金貨や銀貨が死体の近くに置いてあった。

 いつものボックス席の背もたれ部分に腰掛け、ヨハネスは酒瓶を開けた。

「……しかし参ったな、混合血液の関係者と思わしき人物を見つけたのに」

「か、関係者ですって! 誰が製造したのかわかったのですか!」

 驚愕するメリーアンに、ヨハネスはどこか億劫そうな所作でうなずいた。

「ああ。恐らくこいつだと思う。――どうしよう。もう面倒くさくなってきた。窓口がいないんじゃ組合に報告できない。僕は一体どうすれば良い?」

「ルシアンには先に伝えたでしょ? もういいんじゃない?」

 ため息をつきながら酒を呑む兄に、クラリッサが何気ない様子でアドバイスする。

 しかし、その言葉にメリーアンは顔色を変えた。

「だっ、旦那様に会ったの?」

「うん。あんちゃんが今朝、監獄館に行って、それで――」

「……女の顔と名前を伝えた」

 つまりメリーアンが眠りについている間に、ルシアンは黒幕の正体を知ったのか。

 絶句するメリーアンを一瞥すると、ヨハネスは小さくため息を吐いた。

 そしてバインダーを手にすると立ち上がり、メリーアンへと近づいてくる。

「……君にも教えてやる。こいつの名前はジャクリーン・ロザリン・ハウザー。元魔法大学の准教授。専門は魔物の血液の持つ作用」

 淡々とした口調で語りながらヨハネスはバインダーを開き、メリーアンにそこに貼り付けられた写真を見せた。

 不機嫌そうな顔をした女だった。

 重たい印象の長髪を肩にかけている。目の下にくっきりとしたクマがあり、それが白黒の色彩で協調されて余計に幽鬼のような印象になっていた。

 そのまなざしに、記憶が刺激された。

「この人、どこかで……」

「教え子を何人か廃人にしてしまったんで、大学から追放された。父親は吸血鬼で、血液に関する研究の原点となったようだな」

「混合血液って、質が悪い吸血鬼の血が使われてたんだよね? それって――」

 首をかしげるクラリッサに、ヨハネスはうなずいた。

「単純だ、恐らく自分の血を混合血液に使ったんだろう。半吸血鬼の血だったから、純血よりも当然質は落ちる」

「……アロイスの言葉。半分の女というのは、血液が半分と言うことだったのですね――」

 ならば細切れの男というのは――メリーアンは頭を押さえる。

 思い浮びそうで浮かばない。霧の中で、何かの影を追いかけている気分だった。なによりこの写真の女を、つい最近どこかで見た気がしてならない。

「うう……思い出せない。絶対、どこかで見たはずなのに……」

「僕にはまったく見覚えがないな」

「あんちゃん、人に興味がないものねぇ。正直、上司の顔も怪しいでしょ」

「いらない情報を長期記憶に刷り込むほど僕の脳は暇じゃない」

「だからあんちゃんは教授になれないんだよ。いい加減、職場の人の顔と名前くらいは覚えようよ。何十年同じ職場で働いてるのさ」

 頭を悩ませるメリーアンをよそに、兄妹が淡々と語り合う。

 どれだけ考えても、女の姿を何処で見たのか思い出すことができない。このまま延々唸っていても、無駄に時間を消費するだけ。

 そう判断したメリーアンはヨハネスの持っている写真を見つめ、意を決した。

「あの……この資料、少々お借りしてもよろしいでしょうか?」

「ん……? まぁ、構わないが。アルカも死んでるし、伝えるべき人間には伝えた。僕はこれからバカンスだから、この写真は必要ない」

「バ、バカンス……」

 いまいちヨハネスには似合わない言葉だ。その一言で、ゴールドランド南海岸のビーチで死んだような顔で日光浴するヨハネスの姿がメリーアンの頭に浮かんだ。

 が、その想像はクラリッサの一言に否定される。

「家に引きこもって静かにするだけだよ」

「最高の贅沢だと思わないか。――ともかくこれは君にやる。僕は帰る。リッサは――」

「あたしはメリーアンについていく」

 クラリッサは兄の言葉をさえぎり、きっぱりと言い切った。

 頭がようやくビーチから帰ってきたメリーアンは、その一言に思わず親友を二度見する。

「クラリッサ……?」

「ルシアンを探しに行くんでしょ? だったらあたしもついていくよ。メリーアンだけじゃ心配だもの」

「だ、大丈夫よ! 私、地図だって読めるわ!」

「文字が読めるってだけでしょ。それに幽霊避けのトラップに引っかかったりしそうだし、魔術師に攫われたら大変」

「わ、私ってどれだけそそっかしいと思われてるの……」

 情け容赦のない言葉の数々に、メリーアンはしょんぼりと肩を落す。

「――だから、あたしはメリーアンについていくよ」

 そう言って、クラリッサは兄を見る。

 ヨハネスは思い切り眉間に皺を寄せて、小さな妹を見下ろした。背の高さもあり、ただ一睨みだけで凄まじい圧力がある。

「……僕に一人で帰れというのか」

 加えて地の底から響くようなその声。隣で見ているメリーアンも震えそうになった。

 が、クラリッサはけろりとした顔でうなずいた。

「そういうこと。あんちゃん、でっかいから一人で帰れるでしょ」

「…………この前は迎えに来ただろう。危ないからって」

「あの時のあんちゃんは『お前は馬鹿か?』って言ったじゃない」

 妹の指摘に、兄はむっつりと黙り込んだ。

 クラリッサはヨハネスを見上げると、耳元に付けた赤いビーズの護符をチリチリと揺らしてみせた。

「大丈夫だよ。今度は新しい御守りも着けたもの。――ほら、帰ったらグーラシュを作ってあげるから」

 ヨハネスは不機嫌そうな顔で、しばらく黙ってクラリッサを見下ろしていた。

 クラリッサもまた、じっとヨハネスを見上げる。

 エメラルドグリーンの瞳が見つめ合うこと数秒。メリーアンはエプロンドレスの裾を何度か握りながら、兄妹の静かな攻防をはらはらと見守る。

 やがてヨハネスが唇を開き、ぼそりと呟いた。

「……タルトも付けてくれ」

 あまりにもささやかな要求に、横で見ていたメリーアンは一瞬呆気にとられた。

 クラリッサは勝ち誇ったような顔で笑い、ぱちりと手を合わせた。

「いいよ、焼いてあげる。あとあったかいココアも付けてあげる」

「……よかろう」

 ヨハネスはなおもしかめっ面のまま、ゆっくりと視線を逸らした。

 そのままレッドスパイダーの出口へと向かっていく。さながら大型の肉食獣が戦いに興味をなくし、去って行くかのような足取りだった。

 扉を開け、そこでヨハネスは「そうだ」と振り返った。

「メイド。もしアルカに会ったら『もう僕を面倒に巻き込むな』と言っておいてくれ」

「あ、会えるのですか? ……こんな状態でも?」

 メリーアンは混乱の表情で、床に転がるアルカの死体を指さした。

 ヨハネスは仏頂面でため息をつく。

「諦めろ。会いたくなくても、どうせまた会う事になる。――それじゃ、僕は帰る」

 ヨハネスは、のそりとレッドスパイダーを出て行った。

 残された少女二人はそれぞれ顔を見合わせる。メリーアンは心配そうに、クラリッサはいつもと変わらず涼しげな表情をしていた。

「本当に……大丈夫? 危ないところも寄ると思うのだけれど」

「大丈夫だよ。魔女街なんてどこ行っても危ないじゃない。――とりあえず、これからどうする? ルシアンがいそうな場所って、心当たりはある?」

 クラリッサの問いかけに、メリーアンは一瞬考えた。

「……まずは、暴風跡に行こうと思っているの」

「……昨日、行った場所だね」

 クラリッサの顔に、にわかに緊張の色が差した。

 メリーアンも真剣な顔でうなずく。

「多分旦那様なら、一度は寄ると思うの。昨夜の出来事をもう一度検証するために。もしかしたらまだいらっしゃるかも――」

「でも、もしルシアンがいなかったらどうする?」

 メリーアンは額を押さえる。

 暴風跡にルシアンがいなかったらどうするか。

 あの場所以外にルシアンのいそうな場所など見当もつかない。

「その時は……そうね。大人しく、監獄館で旦那様を待つわ。心当たりのある場所って、今はそこしかないんだもの」

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