11.相互理解の不足により生じたメイドと旦那様の諍いとその結末

「我輩はお前にそこまで求めていない」

 以前と同じ言葉に、メリーアンはきつく唇を噛む。

 しかし、ここで黙り込んでいればあの時と変わらない。シーツを握りしめて、メリーアンはぽつりぽつりと思っている事を唇にのせた。

「だから、求められたくて。……認められたかったんです。旦那様の望むことを、ちゃんとやり遂げられる……どんな困難も、平気なメイドに……」

「……我輩は求めていない」

「…………旦那様」

 思い上がっていたところがある、とメリーアンはぼんやりと考えた。

 本来、そこまで器量が良いわけでもない。そして、今までの事件はメリーアン一人では解決することができなかった。

 こんな自分が主人に必要とされる事を期待したのが間違っていたのかもしれない。

 それでもまた、視界が潤む。

 眉を寄せ、涙を零すまいとメリーアンが深呼吸した時、ルシアンがぽつりと呟いた。

「そんな破滅的な忠義を求めていない」

「え……」

 思いがけない言葉に、メリーアンははっと顔を上げる。

 ルシアンは仏頂面で床を睨み付けていた。

「お前は自分の身がどこまで脆いのか、わかっているのか。尋常ならざる力があるとは言え、お前は幽霊。その体は剥き出しの魂だ」

 言い聞かせるような言葉に、メリーアンは涙に濡れた瞳を見開く。

 ルシアンは顔を上げると、声も出せずにいるメリーアンを見つめた。赤い瞳でまっすぐにメリーアンを見つめ、彼は囁いた。

「……ヒビだらけの体で砕け散るまで戦う必要は、ない」

 メリーアンはゆっくりまばたきを二度する。

 言われた言葉の意味を吟味し、自分の考えていた言葉の意味と照らし合わせる。その作業は以外に難しく、メリーアンは数秒ほど停止していた。

「……あの、つまりその、『そこまで求めてはいない』というのは、まさか『体が壊れるまで働くことを求めてはいない』という?」

「それ以外のどういう意味になるのだ」

 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにルシアンは鼻を鳴らす。

 メリーアンは震える声で確認した。

「……私の働きは大したことないから、何をしても無駄、とか」

「なんだ、その自虐的にも程がある解釈は。……まさかお前、そんなしょうもない捉え方をしてい――ぐおっ」

 ぼふっと鈍い音がした。

 気づけば、メリーアンはルシアンの顔面に枕を叩き付けていた。

 やってしまったと思った。しかし、もはや後戻りはできない。なにより体の動きが止まらない。メリーアンは無言で、再度ルシアンの顔を枕で殴りつけた。

「っく! おいっ、いきなり何をする!」

「とりゃああああ!」

 顔を真っ赤にして叫びつつ、メリーアンはルシアンの腕を思い切り引っ張った。

 完全に不意を突かれたルシアンは寝台の上に引き倒される。メリーアンはその上にまたがり、ぼふぼふとひたすら枕を叩き付けた。

「旦那様の馬鹿! 馬鹿! あんまりです! あんまりです!」

「や、やかましい! 主人に対して何を言う! それとお前も自虐が過ぎる!」

 ルシアンの力ならば簡単にメリーアンをどかすことが可能だろう。

 しかし一応は怪我人のメリーアンに配慮しているのか、それとも完全に調子が狂っているのか。ルシアンは枕をどうにか腕で防ぎつつ、メリーアンに怒鳴った。

「無駄だと思うならそもそも傍に置くわけがないだろう! 馬鹿はお前だ!」

「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」

「なんだ、語彙貧困だな! それしか言えないのか、お前は!」

「旦那様こそ言葉が足りない!」

 鼻で笑う主人の顔にさらに強く枕を叩き付け、メリーアンは怒鳴った。

「コーヒー飲めない! ピーマン食べられない! 好き嫌い多すぎ! 猫舌! 薬はシロップ系じゃないと文句を言う! 朝起きられない! 夜遅い! 遅くに帰ってきた時はいっつも女の人の香水のにおい! お風呂上がりはずーっと半裸!」

「やめろ! 人の欠点を的確にあげるな! ちょっと傷つくだろうが!」

「たまに私と愛人の名前を間違える! 最悪! 最低!」

「初耳だ! ――ええい! 人が少し甘めに対応してやれば付けあがって! 喰らえ!」

「うぎゃ」

 ふわりとした浮遊感を感じた。

 気づけば上下は逆転し、メリーアンは押し倒されていた。痛みはない。恐らくルシアンが魔術か何かを使ったのだろうか。

 両手を押さえつけ、見下ろすルシアンがにいと笑う。

「どうだ、これでもう何もできまい」

 メリーアンはちら、と主人の左手を見た。

 アロイスとの戦い、そして蛮神との戦いで重傷を負ったはずの手。それには、指先まで包帯が巻き付けられている。

 それを確認すると、メリーアンは思い切り首を左にひねって反動を付けた。

「これに懲りたなら大人しく――」

「ウガー!」

「ぐあッ! やめろ! こいつめ、首を外して――あだだだっ、手に噛みつくな! 人間性を捨てるんじゃない!」

 数分後。メリーアンは枕を抱き締めた状態でぐったりしていた。

 乱れた髪のルシアンが仏頂面で寝台に座り、右手をさすっている。その手首にはくっきりとメリーアンの歯形が付いていた。

 髪を掻き上げ、ルシアンはぼそりと言った。

「……………………すまなかった」

「うわ、旦那様が謝った……怖い……」

「なんだ、その反応は」

 わざとらしく驚いてみせるメリーアンの頭を、ルシアンは軽く小突いた。

 メリーアンはくすりと小さく笑い、枕をぎゅうっと抱き締めた。

「私も……もっと、自分の体を大切にします……」

「そうしろ。いたずらに全力を尽くさず、もっとやり方を考えろ」

「……はい」

 メリーアンはこくりとうなずく。

 ほうとため息を吐くと、全身に疲労感がのしかかってきた。

 メリーアンは目元をこすり、首をかしげた。

「……あれ、なんでしょう。すごく、頭が重い……目を、開けていられない……旦那様、なんだか、私、おかしくなって……」

「別に異常はない。眠ろうとしているだけだ、お前は」

「眠り……ですか……」

 ぼんやりとメリーアンは呟く。

 本来、幽霊に睡眠は必要ない。メリーアンは夜になるとルシアンの世話をする他は、いつも掃除や翌日の準備をしたりして時間を潰していた。

「そのまま眠れ。目覚める頃には、構成霊素も癒えているだろう」

 さらりとルシアンがメリーアンの髪に触れる。

 それをくすぐったく感じつつ、メリーアンは小さくあくびした。

 体は鉛のように重い。先ほど激しく動いたせいで、ぴりぴりと全身に痛みを感じる。それでも、そのけだるさをメリーアンはどこか心地良く感じていた。

 夜明けはもう目前だ。部屋はずいぶん明るくなっている。

「……旦那様……もう少し、傍にいていただいても」

「ここは我輩の自室だぞ。言われずとも勝手にくつろいでいる」

「ん……はい……」

 メリーアンはほうと息を吐き、目を閉じる。

 頭に触れる主人の手の感覚が心地良い。相変わらず撫で方はへたくそだが、その拙さをメリーアンはそこそこ気に入っていた。

 やがて、ルシアンの手の感触がふっと消える。実体化が解けたようだ。

「……おやすみ。メリーアン」

 いつになく優しいルシアンの囁き。

 声を出すだけの気力もなく、メリーアンはこくりと小さく首を動かした。

 そうしてメリーアンはずいぶん久しぶりに眠りについた。


 夢は見なかった。

 久々の睡眠をじっくりと味わうように、メリーアンはこんこんと眠り続けた。

 やがて遠くで廃墟が崩れる音が響いた時、目覚めた。

「――ん、う?」

 メリーアンは目を開いたまま、しばらくそのままぼうっと天井を見上げていた。

 体の痛みはない。久しぶりの睡眠のおかげか、頭はいつになくすっきりしていた。

 やがてメリーアンは慎重に起き上がり、辺りを見回した。

 眠りについた時と変わらず、メリーアンはルシアンの部屋にいた。

 ただ先ほどとは異なり、カーテンから燦々と外の陽光が差し込んでいる。

 そしてもう一つ、違う点があった。

「旦那様……?」

 メリーアンはベッドから降り、部屋を見回した。

 広い部屋のどこにも、ルシアンの姿はない。ベッドサイドのテーブルには彼が飲んでいたロックグラスがそのまま置かれ、灰皿には煙草の吸い殻が二つ転がっている。

 そしてその横に、メモが一つ。メリーアンはメモをとり、内容に目を通した。

『野暮用ができた。必ず戻る。お前は大人しくしていろ』

「出かけられたの……?」

 メリーアンは幽体化すると扉をすり抜け、部屋の外に出た。

 朝も薄暗い監獄館は静まりかえっている。意識を集中し探っても、主人の気配はない。

 いつもと同じだ。ルシアンが出かけているときの監獄館と変わらない静けさ。

 なのに、メリーアンは急激に不安になった。

 エプロンのポケットからメモを取り出し、再度内容を確認する。

 見慣れたつんつんとした文字は、ルシアンの筆跡に間違いない。

「……戻りの時間が書いていないわ。それに、いつもなら何か要件をお申し付けくださるのに、それもない」

 メリーアンは呟いたものの、すぐに「いや」と首を振った。

「……指示はされているわね」

『大人しくしていろ』――傷を負ったメリーアンへの心遣いだろうか。

 しかしメリーアンの虚ろな胸の内は、不安と心配でいっぱいだった。

 ルシアンの傷も、まだ完全には癒えていないはずだ。彼は驚異的な再生力を持つ肉体を持ってはいるが、あの傷はいわば彼専用の呪いによって受けたもの。

「野暮用って、なにかしら……」

 野暮用。そう聞いてまず思い浮ぶのは、混合血液を巡る一連の事件だ。

 アロイスは死んだ。しかし、黒幕はまだわかっていない。

 アルカに聞けばわかるだろうか。

 何より、あのバーテンダーには聞かなければならないことがもう一つある。

 メリーアンは手を前に出し、意識を集中させる。

 すると青い光が掌から零れ、小さな迷宮めいた結晶――神涙晶が現われた。

 複雑な輝きを放つそれを見つめ、メリーアンは物憂げにため息をつく。

「……夢じゃなかったのね」

 この結晶を使えば、失った記憶を取り戻せる。

 だがその時、メリーアンは一体どうなるのか。今のメリーアンのままでいられるのか。

 なにより――ルシアンの傍に、居続けることはできるのか。

 メリーアンは首を振り、そっと手を握りしめた。アルカが言った通り、神涙晶は彼女の意志に従ってその姿を消す。

 空っぽになった手を何度か握り直して、メリーアンは再度ルシアンのメモを見た。

「……アルカさんのところに、行ってみましょう」


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