10.ふたりぼっち
「――余計なものを見るな」
「んっ……」
革のしっとりとした感触を額に感じ、メリーアンは目を開ける。
まず眼に入ったのは、どこか見覚えのある天井だった。メリーアンは幽体の状態で、黒い寝台の上に漂っていた。
そして、傍で煙草をふかすルシアンの横顔。
「だんなさま……」
声をかけた瞬間、結っていない髪が顔に掛かった。
そこでメリーアンは自分が何も服を着ていない事に気づいた。極限まで構成霊素が破壊されたせいで、服を作り出すだけの力も残っていないようだ。
白い肩も、形の良い胸も、なにもかもルシアンに晒してしまっている。
しかしメリーアンがまず隠そうとしたのは、首だった。
「う……傷、が……」
普段は『肌』を調整することで隠している首の裂傷。骨肉を切断される事で生じたそれが、今は剥き出しになってしまっている。
恥ずかしさはある。けれども、それ以上に主人にこのおぞましい傷を見せたくない。
だがそれを隠そうと手を動かした瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
「痛ッ、う――!」
「下手に動くな。構成霊素の復元自体は完了したが、まだ完全に体が癒えたわけではない。痛みが消えるまでには少し掛かる」
「そうですか……」
それでもどうにか痛みを堪え、メリーアンは右手で首の傷を隠した。
どうやら夜明け前のようだった。がらくたで散らかった部屋は暗く、薄青い。
ルシアンは寝台の傍に置いた椅子に座り、時折ウィスキーを飲んでいる。氷の音を聞きつつ、メリーアンはぽつりとルシアンに問いかけた。
「ここ……どこでしたっけ……」
「我輩の部屋だ。忘れたのか」
「ああ、そうでしたね――なっ、ごめんなさい! これじゃ旦那様がお休みに……!」
「黙って寝てろ。もう一度一からお前を復元するのは御免だ」
無理やりに起き上がろうとしたメリーアンをルシアンは片手で制す。
メリーアンは恐る恐るもう一度横になった。
小雨が降りだしたのか、外からはさらさらと雨音が聞こえる。
しばらく二人は黙り込んでいた。
ルシアンは黙って紫煙をくゆらせ、メリーアンはじっと天井を見上げていた。
やがて、耐えられなくなったメリーアンが口を開いた。
「あれは、なんだったのですか……たくさんの記憶が……」
「走馬燈と似たようなものだ。重大な損傷を受けた構成霊素を復元する時に起きる」
ルシアンはすぐに答えた。
メリーアンは慎重に寝返りを打ち、ルシアンを見る。ルシアンは手持ちぶさたな様子で、琥珀色の酒を満たしたグラスを揺らしていた。
「でも……なんだか、私とは関係のないような記憶も混ざってて……」
「……恐らく我輩のマナの影響で記憶が混線しているのだろう。今回はいつもより大量のマナを使って損傷を修復したからな」
言いながら、ルシアンは溶けかかった氷を軽く指先で突く。
その間、一度もメリーアンを見ない。
「旦那様……あの、私……」
記憶の中で、ルシアンはアニムス=グロリア皇帝に「父上」と呼びかけていた。
そして、メリーアンはアロブ=マブのわめき声を思い出す。
はいたいし――廃太子。その言葉と、あの記憶が指し示すモノは。
――貴方の過去に、一体何があったのですか。
本当はルシアンに問いかけたくてたまらなかった。そしてルシアンもメリーアンのそんな気持ちを察しているような気がした。
なんともいえぬ沈黙の中、メリーアンはゆっくりと心を落ち着ける。
「……また、怪我しちゃって申し訳ないです」
けれどもメリーアンは、あえてたずねなかった。
自分は、メイドだ。主人が求めない限り、主人の事情にあまり踏み込むべきではない。そもそもルシアンは本来、その心の内面に触れられる事を好まない。
だから、たずねなかった。
「……しばらくは大人しくしていろ」
一拍遅れて、ルシアンは言った。
グラスを見つめる表情は変わらない。しかし、どこか安堵した様子があった。
「構成霊素がまだ完全に結合していないせいで、体が壊れやすい」
「……はい」
代わって、今までのことを思い出すメリーアン。
「……旦那様、申し訳ございません」
「まだ何かあるのか」
「……申し訳、ございません」
二度目の謝罪にはルシアンは何も言わなかった。
その沈黙は、どうしようもなく耐えがたいものだった。
だからメリーアンは無理やりに体を起こし、実体化する。痛みに喘ぎつつも『肌』の上にいつものメイド装束を形成した。
「なッ、馬鹿――!」
目を剥くルシアンに向き直り、メリーアンは苦痛を押してどうにか彼の足下に跪く。
床に突いた膝が、きしきしと硝子が擦れ合うような音を立てた。
「私、旦那様にふさわしいメイドになりたかった」
しかし、メリーアンはもはや痛みを感じていなかった。
「でも、駄目でした」
堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れ出す。
メリーアンはしゃくり上げながら、目元を抑えた。指の狭間から零れ落ちる幽霊の涙は床へと滴る前に、空中で消えていく。
「私の全てを尽くしても、お役に立つことができませんでした。それどころか私……わた、し……っく、旦那様の、足手まといにしか……っ」
「おい」
「だから……もっと、私なんかじゃなくて……誰か、私より、ずっと優秀な人……っ、メイドにした、方が――!」
「メリーアン」
ルシアンがメリーアンの名を呼ぶ。
メリーアンはごしごしと目をこすると、ルシアンに向かって微笑みかけた。
それは今現在のメリーアンができる、最大限に優雅な微笑だった。
「私は……消えちゃっても、大丈夫ですから……だから――!」
震える唇に指が当てられ、メリーアンは潤んだ眼を見開く。
いつの間にかルシアンがメリーアンの前に膝をつき、その口を押さえていた。
「――それ以上、何も言うな」
押し殺した声でルシアンは囁く。
こちらを見つめる赤い瞳は大きく見開かれ、見たことのないまなざしをしていた。
「何を、お前は……ふざけた……破滅的で、独りよがりな……誰が、そんな……」
ルシアンの声が震える。
その顔の左側が、じわりと黒い影に包まれる。ざわざわと揺れる影の中で、赤い瞳が風に晒された篝火のように揺れている。
影に包まれた顔を片手で抑えるように覆い、ルシアンは緩く首を振った。
「そうだ、どいつもこいつも――いつもそうだ。笑いながら死のうとする。迷惑だ、こっちの気も知らないで、どいつも、こいつも――」
「だんなさ――」
「黙っていろ」
かすれた声で囁かれ、メリーアンは口を噤む。
ルシアンはきつく爪を立てるようにして顔を押さえ、震える呼吸を繰り返した。
やがて、徐々にその影が落ち着いていく。
ルシアンは深く息を吐くと、指の狭間からぎろりとメリーアンを睨んだ。
「…………我輩か」
「え? ――っわ、だ、旦那様?」
ルシアンは跪いていたメリーアンの膝裏と背中に手を回し、彼女を軽々と抱え上げた。
乱暴な所作とは裏腹に、体に痛みはない。
ルシアンはメリーアンの体を慎重に寝台の上に下ろす。そして自身は身を屈め、戸惑うメリーアンに視線を合わせた。
「お前をそこまで追い詰めたのは、我輩だな。そうだろう?」
「そんな、こと……は……」
「嘘を吐かなくていい」
言葉こそ優しかったが、その低い声音に背筋がひやりと冷えた。
「この我輩に、見抜けないとでも思っているのか」
「……もうちょっと早く見抜いて欲しかったかもしれないです」
メリーアンは視線を落し、皺の寄った黒いシーツを見つめた。
弱々しいメリーアンの非難にも、ルシアンは特に怒る気配を見せなかった。ただ深いため息を漏らし、くしゃりと前髪を掻いた。
「……どうにも昔から身近には目が向かん」
「旦那様は基本的に現在の自分のことしか見ていませんものね」
「非難するか」
「非難したところで今更変わらないでしょう。それになんというか……それが旦那様のあり方で、そうでなければ旦那様ではないというか」
「……確かに今更あり方を変える事はできないな。こう在る事を望んだのは我輩だ」
ルシアンは肩をすくめる。いつもなら涼しげな表情をしているところだが、今の彼の顔には珍しく愁いの影が差していた。
彼自身、どこまでも自己中心的な自分のあり方に何か思う事があるのかもしれない。
メリーアンは深くため息を吐いて、ぽつりと零した。
「……私は……ただ、旦那様のお役に立ちたくて」
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