9.走馬燈の彼方の冥王

 五体の感覚はない。

 ただ水底へと沈んでいくような奇妙な浮遊感を感じた。どこともしれぬ暗闇の中にゆっくりと沈みながら、メリーアンと名付けられた幽霊はぼうっと考えた。

 ――私は、なんだったかしら。私って、なにかしら。

 曖昧な頭と心で、自問自答を何百何千と繰り返す。

 その感覚には覚えがあった。これはルシアンと出会う前のまどろみ。形も名前も記憶さえも失った少女が漂っていたもの。

 自分は、また何もかも失ってしまったのか――漠然とした恐怖を抱いたその時。


「――冥王が告ぐ」


 低く艶やかな男の声が静かに響いた。

 途端、朦朧としていたメリーアンの意識は色彩の奔流に呑み込まれた。

 それは記憶の激流だった。時間も場所もばらばらな記憶が意志とは無関係に呼び起こされ、身構える間もなく意識へと流し込まれる。

 走馬燈の如く巡る情景に、曖昧だったメリーアンの自我が揺らされる。


「砂糖を忘れてはいないだろうな?」

 昼でも暗い監獄館。主人が不機嫌そうに赤い瞳を細める。

「チッ……ケダモノのせいで手が汚れっちまった」

 チープな音楽の流れるキングダム。血に汚れた手を、ジャンキーがジンで流している。

「バターを付けたら美味しいのかな」

 赤い花咲くカロン川のほとり。怪魚を釣り上げた親友がため息を吐いている。

「憎らしい」

 雨の降り注ぐ廃墟の街。神官を打ち続ける准教授が繰り返す。


 感覚が狂う。思考が火花を散らす。

 まるで強い酒を煽ったように、流し込まれる記憶にメリーアンは酔っていた。記憶が蘇るごとにその時の音やにおいも蘇り、感覚が激しく混乱する。

 強い酩酊感を感じつつ、メリーアンはなんとか記憶の激流から逃れようとした。

 しかし抵抗の術もなく、ただ押し寄せる情景に身を任せるほかなかった。


「私は間違っていないわ。間違っていないの」

 血に汚れた廃墟の街。冷たい小雨の中で、壊れた神官が呟いた。

「道、踏み外してみない?」

 ダンスミュージックの流れるバー。カウンターの向こうで人ならざるものが笑う。

「甘い飲み物も冷たい菓子も、好きなだけあげる」

 陽光の降り注ぐ第五区。魔性の女が背後から囁く。

「三十人、三十人だ!」

 キングダムの壊れた舞台。人狼が血の涙を流しながら吼えている。

「白百合! 魔女街の白百合ではないか!」

 見知らぬ黄昏の街角。赤い自動車から銀髪のスカードが呼びかける。

「主人は外出中なので」

 貴賓区の大邸宅。青白い顔をしたメイドが素っ気なく言う。

 

 目が回る。頭がくらくらとする。

 流し込まれる情景に、メリーアンの頭は破裂しそうになる。しかし記憶が流れ込むたび、曖昧だった感覚が徐々にはっきりとしていくような気がした。

 曖昧だった五体の感覚が痛みを伴いつつも、徐々に戻ってきている。

 ――ああ、そうか。

 メリーアンは自分の唇に微笑みが浮かぶのを感じた。

『今更、失うものなんてなんにもないわ』

 確かにあの時――アロイスとの戦いでメリーアンはそう言った。

 自分には生前の記憶も、命さえもない。

 寄る辺のなさにずっと不安を感じていた。自分は蝋燭の火のような――あるいは春の夢の如く、儚く淡い存在だと思い込んでいた。

 こんな曖昧な自分はいつか消滅するのではないかという不安に、ずっと苛まれていた。

 けれども――メリーアンにも確かな軸はあった。

 こうして想起される記憶は、どれもメリーアン自身が紡いだもの。そして今それが、メリーアンの魂を少しずつ癒やしていっている。

 ――どうやら私は、がらんどうではないようだ。

 奇妙な話だとメリーアンは笑う。死んでから確かなモノができたなど、おかしな話だ。

 しかしそのおかしさが、何故だかとても心地良かった。

 体を流れるマナの循環が滑らかになっていくのを感じた。

 手足の感覚も蘇り、水の中を漂っているような心許ない浮遊感は消えつつある。しかしそれと同時に、全身に刺すような鋭い痛みを感じるようになった。

 そろそろ、目覚められるだろうか。

 覚醒に到るその刹那、最後に奇妙な情景がメリーアンの頭に流れ込んできた。


 灯火が揺れている。

 そこは、金や大理石で飾り立てられた広間だった。高い天井には、太古の神々や歴代の皇帝達の姿が色鮮やかなフレスコ画で描かれている。

 そんな荘厳な空間に、甲冑を着た無数の騎士達が犇めいていた。

 広間を照らす松明の火に、彼らの鎧や剣がてらてらと輝いている。聞こえるのはプレートの擦れる音や、兜の下から零れ出る息の音。

 ――そして、間近に迫る鬨の声。

 ここは、どこだ? 物々しい空気に気圧されつつ、メリーアンは辺りの様子をうかがう。

 これは自分の記憶ではないと本能が訴えかけている。

 その証拠に、視点がいつものメリーアンよりもずっと高い位置にあった。メリーアンは何者かに憑依するような形で、この場に存在しているようだった。

「……たった一人でここまで来るとは。血迷うたか」

 しわがれた男の声に、メリーアンははっとする。

 正面には壮麗な作りの玉座があり、痩せた壮年の男が着いている。

 手には様々な宝石を付けた王笏を握り、綺麗な白髪の上には金の王冠を載せている。皺の深く刻まれた顔には、呆れと嘲りが混ざった笑みが浮かんでいた。

 会ったこともないはずの人間だった。しかし憑依している人間の影響か、メリーアンの頭にはたちまち男の様々な情報が浮かんだ。

 あれは、アニムス=グロリア皇国の皇帝だ。

 いにしえの大国の支配者が、何故かメリーアンの目の前で笑っている。

「あの半神の騎士まで置いてきたのか? たった一人で何が出来る。貴様だけで精強たる我がアニムス=グロリア近衛騎士団を相手にできるとでも――」

 玉座の向こう側は、鏡張りになっていた。

 そしてそこには皇帝の正面――メリーアンの位置に立つ者の姿が映っていた。

 頭から爪先まで、まるで夜闇を纏っているかのように黒い。

 刺々しい鎧も、その上から羽織っているマントも、全てが漆黒。唯一マントの裏地だけが、血で染めたかのように赤かった。

 そしてその顔は、怪物の頭部を模したような凶悪な兜に完全に隠されている。

「――ロイエリオンは、俺には心がないと言った」

 メリーアンの憑依した人物が声を発した。

 それはあまりにも耳に馴染みすぎた、低く艶やかな男の声だった。けれどもメリーアンの知る、あの人はこんなに淡々と喋る人ではなかった。

 混乱するメリーアンをよそに、皇帝がぴくりと眉を動かした。

「……何?」

「お前には心がない、だから愛とやらがないのだと。……そうとも、俺には愛など理解できん。見えないものは信じない。触れたことの無いものはわからない。少しでも心惹かれた者は、俺が触れる前に尽く貴様らに壊された」

「……はっ、なかなか陳腐な悲劇じゃないか。吟遊詩人にでもなったらどうだね?」

 皇帝が笑った瞬間、どろりと空気が淀んだ気がした。

 広間の明かりが翳った。気温が下がり、鏡の壁に薄く霜が張り始める。戦火の音が遠のき、代わってざぁざぁと――木立のざわめきに似た異音が響き出した。

 明らかな異変に騎士達の間ににわかに緊張が走る。

 皇帝も顔を強ばらせ、冷たい薄闇に覆われつつある広間を見回した。

「これは……魔術、なのか……?」

「師も、恩人も、あの人も……そう、全てだ。貴様らは俺の全てを奪って、全てを壊した」

 皇帝の問いには答えず、黒騎士は淡々と語る。

 その手がゆるりと持ち上がった。周囲の騎士が一斉に剣や槍を向ける中、黒騎士はゆっくりとその手を自分の兜へとかける。

 この先を見てはいけない気がした。

 けれどもメリーアンは食い入るように、正面の鏡を見つめた。

「――だからこんな化物が生まれてしまった」

 兜が音を立てて、床に落ちた。

 そこに立っていたのは間違いなくルシアンだった。

 零れ落ちる黒髪は肩に掛かるほどの長さ。灯火に煌めく瞳の赤色も、晒された白皙の美貌もメリーアンの知っているそれと変わりない。

 けれども、何かが確実に違う。

 こんなにも暗く――そして虚ろな目をした主人を、メリーアンは知らない。

「お、お前、は……!」

 けたたましい音を立てて、皇帝の手から王笏がこぼれ落ちた。

 蒼白を通り越した白い顔で、皇帝は玉座から立ち上がる。その目は、食い入るように正面に立つルシアンを見ていた。

「……ほう、俺の顔を覚えていたのか」

 顔にかかった髪を掻き上げ、ルシアンは意外そうに眉を動かす。

「これは面白いな。てっきり俺の事など忘れていると思っていた。――なら、餞別だ。最期に挨拶くらいはしてやるよ」

 ルシアンは一瞬目を伏せた後、がらりとその表情を変えた。

 甘く優雅なその微笑はメリーアンも見たことがある。まるで絵物語の王子のようなそれを使えば、どんな女性も手中に落とせる。

 しかしルシアンの目は相変わらず暗く、空虚だった。

 ルシアンはおもむろに胸に手を当てると、うやうやしい所作で一礼した。

「お久しぶりです――父上」

 それはメリーアンのよく知るルシアン=マレオパールではなかった。

 その時、鏡の向こうで笑っていたのは冥王だった。

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