8.ナイト・ドライブ

 ――一体、どこからが夢なのか。

 気づけば、メリーアンは自動車の助手席に乗っていた。

 意識がはっきりしない。手足の感覚がほとんどないどころか、視界さえも不明瞭だ。そして気を抜けば、すぐにでも体が崩れ落ちてしまいそうな気がした。

「……何故、駄犬がついてきている」

 ぼうっとしていると、すぐ隣からルシアンの声が聞こえた。

 くらくらとした目眩を感じながらも視線を隣に移す。おぼろげな視界でも、運転席でルシアンがハンドルを握っているのが見えた。

 赤い瞳をまっすぐ前に向け、不機嫌そうだった。

「ハッ、人が気持ちよく酒飲んでたのに邪魔しやがったからな」

 不機嫌そうなディートリヒの声が背後から聞こえた。

「とりあえずクライネバルトの近くまで乗せろや」

「途中で蹴り落とす」

「やれるものならやってみやがれ」

「二人とも少し静かにしろ。リッサが起きてしまうだろう。……しかし、あの霧は一体なんだったんだろうな」

 眠たげなヨハネスの声が後部座席から聞こえた。微かに聞こえる寝息は、恐らく彼ノ隣で眠っているであろうクラリッサのものだろうか。

 その言葉に、ルシアンは軽く肩をすくめたようにメリーアンには見えた。

「知らん。恐らく魔術ではないことは確かだ」

 ルシアンは煙草を咥え、軽くメリーアンの側に身を乗り出した。

 ハンドルで手が塞がっているから、火を付けて欲しいのだろう。

 メリーアンはどうにかエプロンからライターを取り出そうとした。しかし相変わらず手足の感覚はなく、体はぴくりとも動かない。

「……しまった。癖というのは怖いな」

 謝ろうとするメリーアンを、ルシアンがはっとしたような顔で見た。

 一体、どうしたのだろう。メリーアンが聞く間もなく、ルシアンは席に体を戻す。

「霧の中に敵が隠れていたという可能性は?」

 ヨハネスの問いに、ルシアンは火の付いていない煙草を咥えたまま首を振る。

「……無理がある。直前まで、まったくなんの気配もなかったからな」

「さっきから二人でなんの話をしてやがる」

「犬にはわからない話」

 きょとんとしたディートリヒに、ルシアンは鼻で笑った。

「てッめぇ……大体なんだ、二人してしみったれた吸血鬼のにおいをプンプンさせやがって! そのにおいのせいで余計イライラするんだよ!」

「静かにしろ、リッサが寝ているんだ。それに君はいつも苛ついて――いや、待て」

 ヨハネスが息を飲んだ瞬間、悲鳴のようなブレーキ音と共に自動車が止まる。

「うわっ――! マレオパール! 急ブレーキとかふざけんじゃねぇぞ!」

「おい、ディートリヒ……吸血鬼のにおい、といったか?」

 ルシアンが目を見開き、後部座席を振り返る。

「あ? ああ、言ったさ。連中はな、雨が上がった後の空気みたいな独特のにおいがするんだよ。それがてめぇらからプンプン漂ってくる」

 さんざん罵倒をわめき立てていたディートリヒはやや戸惑ったように肯定した。

 すると、後部座席でもぞもぞと衣擦れの音が聞こえた。メリーアンからはその様子が見えないが、どうやらヨハネスが自分の服のにおいをかいでいるらしい。

「……そんなにおい、するか?」

「する。滅茶苦茶する。多分これは人狼じゃねぇとわからねぇ」

 ディートリヒは不機嫌そうに断言した。

「人狼は吸血鬼が大嫌いだからな。だからどれだけ微かなにおいでも嗅ぎ出せる……間違いねぇ、てめぇらから吸血鬼のにおいがするぜ」

「だが、僕達は吸血鬼なんて希少種族とは接触していない……」

「……いや、接触している」

 カチン、とライターの蓋の音が聞こえた。

 メリーアンが視線を運転席に向けると、ルシアンが煙草をふかして考え込んでいた。

「吸血鬼、吸血鬼か。なるほど、霧に姿を変える能力をもつ種族……霧に隠れていたのではなく、あの霧そのものが下手人か」

「混合血液を巡る一連の出来事は吸血鬼が仕組んだものだと?」

「……ジャードがキメてたあの血液か」

 ディートリヒが唸り声を上げる。

「確かに連中、血液に関してはかなりこだわる種族ではあるが……超人になる血液なぁ」

「……吸血鬼には、まず必要のない代物だろうな」

 ルシアンの言葉に、珍しくディートリヒがうなずいた気配があった。

 もうろうとした意識の中で、メリーアンはどうにか吸血鬼に関する事を思い出す。

 吸血鬼といえば、金環教が唯一勝てなかったといわれる強力な種族だ。彼らは初期に度重なる征伐を受けたものの、今なお夜の恐怖として語られている。

「さらに連中は全体的に美醜に敏感だ。【虎】、ジャード、アロイス・ヴァインに起きた変貌を考えると……ますます奴らが混合血液を摂取するとは思えない」

「街に混乱を起こすために流した可能性とかはねぇのか」

 後部座席で、ディートリヒがヨハネスに問いかけた。

「確か連中と沿岸部の所有権関係で相当揉めたって聞いたぜ」

「あれは魔女街黎明の頃の話だ。それもアルカが介入した事で決着している」

「……じゃあ単純に金銭目的で」

「吸血鬼連中は金持ちだ。それに、奴らはもっとうまい稼ぎ方を知っている」

「ああ、クソッタレが!」

 ディートリヒの怒鳴り声とともに、座席が大きく揺れた。

 どうやらメリーアンがいる席の背中を蹴り飛ばしたらしい。耳を澄ませれば、がちがちと彼の牙が鳴る音が微かに聞こえた。

「吸血鬼に混合血液を作る意味も、流す意味もねぇなら! なんだって吸血鬼の痕跡が出てくるんだ! 意味がわからねぇぞ!」

「ディートリヒ、それ以上騒いだらお前の口を封印するぞ。何度もいうがリッサが眠っているんだ――君の嗅ぎ間違いじゃないのか? 吸血鬼のにおいじゃないとか」

「お、俺が間違えるわけがねぇだろ……!」

 冷静に確認するヨハネスに、ディートリヒが妙にくぐもった声で返す。どうやら口を手で隠しているようだ。

 そこに、ルシアンの静かな声が割って入った。

「……ヨハン、一つ確認だ。」

「なんだ?」

「混合血液から出てきた吸血鬼の血だが、質が悪かったというのは間違いないのか?」

「間違いない。……質が悪いというか、純度が低いというか。ともかく、あまり良質な血液ではないことは確かだ。それでも相当な価値があるだろうが」

 ヨハネスの肯定に、ハンドルをこつこつと指で叩きつつルシアンは考え込む。

「首謀者が吸血鬼ならば、最高純度の血液を用意できそうなものだが……?」

「あー、手前の血を使えばいいだけの話だよな。確かに意味がわからねぇ。アレか、不摂生とかのせいか。例えばほら、酒とか……そう、ビール飲みすぎとか」

『ビール飲みすぎ』という言葉に何か思う節があるのか、ディートリヒがううむと唸る。

 代わってヨハネスがルシアンに問いかけた。

「琥珀豹は何か言っていなかったのか? あの女もこの辺りの話には詳しいと思うが」

「あいつは魔法大学の関係者を疑っていたな。血液の保管に必要な設備、資金の準備が容易だろうと――で、どう思う? 魔法大学関係者」

「ふざけるな」

 地の底から響くような声でヨハネスは否定した。

 どうやら資金やら設備やらで良くない思い出があるらしい。彼はぶつぶつと「大体、こんな研究を大学が認めるか」とぼやいた。

「そんな簡単に予算が下りるものか。ヘタをすれば追い出され――と」

「どした、准教授」

 突然口を閉じたヨハネスに、ディートリヒが気遣わしげに声を掛ける。

 ヨハネスはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「……そんな奴が、いた気がする」

「やっぱり大学関係者じゃねぇか!」

 押し殺した声と共に、後部座席がにわかに騒がしくなった。どうやらディートリヒが怒りのあまりヨハネスに掴み掛かったらしい。

「滅茶苦茶な研究やりやがって! そもそもなんですぐ思い出せなかったんだよ!」

「仕方がないだろう! 確かそいつは他学部の研究員だ! 僕が覚えていただけでも奇跡だ! やめろ! 肩を掴むな! だからリッサが眠っていると――!」

「おい、暴れるな――つっ、おい! 我輩の髪を引っ張ったのはどっちだ!」

「――ん、ううん……」

 微かなクラリッサの声に、車内は水を打ったように静まりかえった。

 クラリッサはむにゃむにゃとなにやら寝言を呟く。しかし、起きる気配はない。

 それを確認したのか、息を潜めていた三人はほっと息を吐いた。

「……さすがに名前まではすぐに出せない」

 ヨハネスがぼそりと言った。

 ルシアンは特に気にした様子もなく肩をすくめると、煙草を灰皿に捨てた。

「資料があるなら後でよこせ。大学教員なら名簿か何かあるだろう」

「探してはみる。ただ、今日は少し休ませてくれ――ああ、僕とリッサはここで降りる」

 ヨハネスの言葉と共に、自動車が止まった。

 鈍い音ともに後方の扉が開く。メリーアンは夜の澄んだ空気のにおいを感じた。

 あ、とディートリヒが声を上げる。

「俺もここで降りるわ。途中まで一緒にいこうぜ、准教授」

「よいしょ――ここはクライネバルトから離れているが良いのか?」

 ヨハネスはもう降りたのか、その声は自動車の外からした。小さなかけ声からすると、どうやらクラリッサを担ぐか背負うかしたらしい。

「酔い覚ましにはちょうどいいぜ。それにここで降りなけりゃマレオパールと二人きりになるじゃねぇか。夜中にマレオパールとドライブとか悪夢だろ」

「やめろ、鳥肌が立つ。こちらも追い出す手間が省けて良かった」

 ディートリヒの唸り声に、ルシアンが吐き捨てるように返した。

 後部座席でもぞもぞと人が動く気配があり、やがてそれは車外に移った。どうやらヨハネスに続いて、ディートリヒも車の外に出たようだ。

「では、僕はこれで。――君も少しは休めよ、ルシアン」

「なんだヨハン、らしくもない」

「あばよ、マレオパール。出来るだけ早くくたばれ」

「出来る限り惨めに死ね、駄犬」

 そして、車内は静寂に包まれた。

 ルシアンはふっとため息を吐くと、メリーアンに視線を向けた。

 メリーアンはルシアンに、何か声を掛けようとした。しかし、やはりどうにも感覚がフワフワとして、思考もまるでまとまらない。

 そんなメリーアンに、ルシアンは手を伸ばしてきた。

「……お前がいないと、色々不便だな」

 ルシアンの呟きに、メリーアンは思わず笑い出しそうになった。

 一体何を言っているのか。自分は確かに、ルシアンの前にいるというのに。

 しかし、ルシアンの手がメリーアンに触れる事はなかった。

 主人の指先は、自分の目の前をそっとたどる。そこで初めて、メリーアンは主人と自分とを隔てる透明な壁のような存在に気づいた。

 どうやらメリーアンは、瓶の中に閉じ込められているようだった。

 これは一体、何なのか。どうして自分はこんな所にいるのか。何があったのかも思い出す事もできず、メリーアンのぼんやりとした意識はただ混乱するばかり。

 錯綜する思考の中で、ルシアンの指先がそっと瓶の表面をなぞるのが見えた。

「……夜が明けるまでには復元せねばな」

 その囁きが聞こえた後、メリーアンの思考は再び影へと沈んだ。

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