6.その微笑はアルカロイドの如く

 思いがけない言葉に声も出せず、メリーアンは目を見開く。

 アルカは酒瓶に蓋をすると、それをテーブルの上に置いた。

「テンペストってさぁ。どうも魔女街始まる前からいたみたいなんだよねぇ。ずーっと暴れてて……けれどおれが一度ぶちのめした事で、しばらくは落ち着いてたんだよ」

「ぶ、ぶちのめした……」

「おれとしちゃ殺したつもりだったんだけどね。――そんで、それがどういうわけか三年前に復活した。なんか復活の理由に心当たりとかある?」

 思わず身をすくめるメリーアンに、アルカは青い瞳を細めて微笑みかける。

 背筋の冷たくなるような笑みだった。メリーアンは目を伏せ、ふるふると首を横に振る。

「……あり、ません。私には、その頃の記憶そのものが、ないですから」

「そっか。まーいいや。――で、復活した君を今度はルシアンが倒した。半年前にね。そんでメイドにしたわけだけど……彼、君をメイドにした理由とか言ってない? あのとんでもない悪霊をメイドにするとか、おれとしちゃ意味がわからないんだけど」

 アルカの問いかけに、メリーアンは一瞬考え込んだ。

 ずいぶん前に聞いた事がある。ルシアンがメリーアンをメイドにした理由、それは――。

「……顔が、気に入ったそうです」

「……そっか。世の中顔なんだね、結局」

 視線を逸らすメリーアンに対し、アルカはやや切なげに目を伏せた。

 何とも言えない沈黙の中で、ブラスバンドの軽快なミュージックが空虚に響いている。

 その演奏が新しい曲へと切り替わった時、アルカがおもむろに口を開いた。

「……今回さぁ。おれ、君に結構無茶ぶりしてるよね」

 今回――とは、アロイス・ヴァインの事件のことだろうか。困惑の表情で見つめるメリーアンに、アルカはにっと唇を吊り上げてみせる。

「正直、【虎】退治からあの時はなんだっていいって思ってたんだけどね。ただ興味はあった。あの凶暴なテンペストが、どうしてこんなに大人しくなったんだろうって」

「お、大人しいですか? 私……」

「大人しいさ。あの頃に比べたらね。だから最初は猫を被ってるだけだと思ってた」

 アルカはうなずき、持ち上げたグラスを軽く揺らした。

「でも【虎】との戦いでも君はテンペストの顔を見せることはなかった」

 満たした酒を波立たせつつ、アルカは淡々とした口調で話を続ける。

 自分に【虎】を任せることを許可したのは興味からだったのか。メリーアンはじっと酒を揺らし続けるアルカを見つめる。

 アルカは一口酒を呑むと、低い声音で呟いた。

「それで、おれはちょーっと怖くなった。だって意味がわからないんだもの。――おれ、初対面でえらい目に合わされてるからね。君に」

「そ、それは申し訳ないです……」

 一瞬咎めるような口調になったアルカに、メリーアンはわずかに身を縮める。

 アルカはへらっと笑って、軽く手を振った。

「あー、いいよ、別に。――で、次はゲファンゲネだ。この時、おれはルシアンの質問に完全に答えていないんだが……覚えてる?」

「え、ええと……」

 メリーアンは不安定な首をひねり、必死で思い出そうとした。

 そういえば、確かにレッドスパイダーで主人がバーテンダーに問いかけた――気がする。

 ――魔女街組合が動く必要がどこにあった?

 ――ルシアン達を動かす必要がどこにあった?

「理由は三つある。一つは基本的にルシアンへの嫌がらせ。もう一つは魔女街がきな臭い――この場合は、混合血液を中心にした不穏な動きが気になったから」

 メリーアンが思い出した質問に答えるように、アルカはゆったりとした口調で言った。

 確かにあの時、アルカは理由を三ついっていない。

 メリーアンはエプロンの裾をぎゅっと握りしめ、アルカをじっと見つめた。

「……三番目の、理由は?」

 音楽がややメロウな曲調に代わる。それに合わせてダンスフロアの明かりが翳った。

 訪れた赤い薄闇の中で、バーテンダーはにやりと笑った。

 反射的に、メリーアンは視線を逸らした。

 何故、そうしたのかわからない。ただ、アルカの青い瞳を急に恐ろしく感じた。

 同時にメリーアンは奇妙な既視感を覚えた。

 同じようなまなざしをする誰かに、最近会ったことがある気がする。

「君がどのような存在か、見定めるためだよ。――天魔テンペストのメリーアン」

 震えるメイドに、バーテンダーは幼子をあやすように優しい口調で言った。

 メリーアンは肩をさすりつつ、どうにかアルカを見る。

「おれはまだ、完全に君を認めちゃいない。得体が知れないんだもの。悪いねぇ、おれってば慎重で。――とはいえ、報酬は出さなきゃいけないな」

「報酬……?」

「君は【虎】を殺し、ゲファンゲネを落とし、アロイス・ヴァインと戦った。特にアロイスの出来事ではイレギュラーが発生しつつも、君は身を挺して奮戦した」

 ゆったりとした口調で語ると、アルカは左手で何かを引き寄せるような動作をした。

「文字通り魂を賭けた――だから、おれは報いなきゃいけない」

 アルカはメリーアンに左手を差し出し、それを開いた。

 掌に載っていたのは、深い青色の結晶だった。無数の立体的な線が集まったその形は、ちょうどルシアンの鉱物コレクションにあったビスマスの結晶に似ている。

 ただビスマスとは異なり、その内部には銀の光が漂っている。

「それは……?」

神涙晶―シンルイショウ―蛮神の涙が結晶となった極めて稀な物質だ。世の魔術師が夢に見るくらいに欲しがる代物さ」

「涙一つにそんな凄まじい価値が……!」

「蛮神って基本的に泣かないからねぇ」

 小さな迷宮のようなそれを掌で転がし、アルカは首をかしげる。

「数万年に一回泣くか泣かないか……いや、もっと少ないか? ともかくどいつもこいつも、喜怒哀楽の【哀】の感情が物凄く希薄なんだよ」

 どうも、このバーテンダーの蛮神についての語り方はどこか奇妙だ。

 しかしその違和感の正体がわからず、メリーアンは落ち着かない気分になった。

「これは強力なマナを秘めているんだ」

 神涙晶を片手で弄びながら、アルカは秘密の話をするように声を落とす。

「一度使えばすぐ壊れちゃうんだけど――ただ、その一度で大きな奇跡を起こせる。蛮神の――神の御業を一度だけ使えるってわけ」

 ぽんとアルカは結晶を軽く投げ、また受け止めた。

 そんな凄まじい品物にこんな雑な扱いをして良いのだろうか。はらはらしながら見守るメリーアンに、アルカは心底愉快そうに語る。

「涙の源となった蛮神の神格にもよるけどね。新たな大陸を作れるかもしれないし、あるいは不老不死になるかもしれない――失われた記憶を取り戻せるかもしれない」

 記憶――その言葉に、メリーアンは目を見開いた。

 一瞬で、結晶に視線が釘付けになる。あの海色の結晶の中に瞬く光は、アルカの言う『強力なマナ』なのだろうか。

「まー、あんな糞餓鬼の神格じゃそんな大した事はできないだろうねぇ」

 強烈な違和感に、メリーアンは現実へと引き戻された。

 ぱちぱちとまばたきをして、目の前で結晶を弄ぶバーテンダーを見つめる。

「えっと。糞餓鬼、って……?」

「あいつだよ。あのマキナ神族のお子様。えーっと――名前なんだっけ? ド忘れしちゃった。おれ、興味がない奴の名前はすぐ忘れちゃうからさぁ」

 退屈そうに首をひねるアルカをよそに、メリーアンはエプロンの裾をきつく握った。

 少しずつ、アルカに対する違和感の正体がわかってきた。

 アルカは、ルシアンやヨハネスとは蛮神に対する捉え方が根本的に異なるのだ。

 それはまるで自分と立場が同じもの、例えば同族を語るような――。

 メリーアンは唇を舐め、うわずった声でたずねた。

「……貴方は、何者なんです?」

「おれはしがないバーテンダーだよ。ただ愉快なことと、人類が好きなだけ」

 アルカは笑う。どこか作り物めいた笑みだった。

 メリーアンはそれに一瞬竦みつつ、バーテンダーの瞳を見つめた。

 顔は笑っているのに、その瞳は硝子玉のようだ。感情がないくせに、こちら側の深淵まで容赦なく見つめているような得体の知れないまなざし。

 ようやく気づいた。アルカが時折見せる恐ろしい目が、一体何に似ているのか。

「だって可愛いじゃん、人類」

 アルカは笑みを貼り付けたまま、かくりと首をかしげる。

 その微笑が、何故かあの蛮神アロブ=マブの人形の顔に重なって見えた。

 ついにメリーアンは耐えられず、膝へと視線を落した。

 顔の作りはまったく違う。グロテスクな人形めいた姿をしていたアロブ=マブと違って、アルカは間違いなく血肉を持った人間だ。

 しかし何故か、本能が告げてくる。――両者は本質的には同じものだ、と。

「……目的は、なんなんですか。一体どうして、貴方のような存在が……私に」

「おれは魔女街の味方だからね」

 その言葉とともに、目の前で硬質な音が響いた。

 メリーアンが顔を上げると、神の力を宿した結晶が無造作にテーブルに転がされていた。

 向かい側の席では、いつも通りの様子のアルカが酒を呑んでいる。

「……あの糞餓鬼の力は大したことがないけどさ。それでも記憶を取り戻すくらいはできるだろう。君の好きに使えばいい」

 メリーアンは何も言えず、妖しい光を放つ神涙晶を見つめた。

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