5.メイドとバーテンダー

 どこかでブラスバンドが軽快なダンスミュージックを奏でている。

「……あ、れ?」

 メリーアンはぱちぱちとまばたきした。

 たしかアロイスと戦い、その後で異界の裂け目が開いて蛮神が現われ――そして、メリーアンは粉砕された。

 思わず、メリーアンは自分の両手を見る。

 手足の感覚は曖昧で、原型に戻った時の感覚に似ている。しかし両手を前にかざしてみると、いつも通り薄く透き通った滑らかな肌が見えた。

 メリーアンは手を下ろし、辺りを見回した。

「ここ……どこかしら」

 様々に色を変える、ぼんやりとした不思議な明かりに照らされている。

 見える範囲に置かれているのはテーブル、肘掛け椅子、ビリヤード台、スロットマシン、ピンボール。壁にはダーツ盤と、古いキャバレーのチラシ。

 隅に置かれたラジオが、しょうもない三文芝居を延々垂れ流している。

 片面の壁は磨り硝子になっていて、その各所には赤いドアがずらりと並んでいた。

 硝子壁には踊り狂う人々の影が映っている。

 どうやら硝子壁の向こう側はダンスフロアになっているらしい。不可思議な明かりとダンスミュージックは、向こう側から伝わってくるもののようだ。

「よう、元気かい?」

 突然背後から声を掛けられ、メリーアンはびくっと震える。

 視界の端に何者かがゆらりと現われ、メリーアンの椅子の背に肘を突いた。

 灰色の髪に青い瞳。男とも女ともつかぬ容貌。赤い蜘蛛の巣模様のバーテン服に身を包んだその姿は、紛れもなく。

「アルカさん……?」

 戸惑いつつメリーアンが名を呼ぶと、バーテンダーはにいっと笑った。

 この異様な空間のせいか、どこか雰囲気が違って見えた。

「なにか飲む? 適当なのタダで用意してあげるよん」

「いえ、私は……」

 しかしアルカは構わず椅子から離れ、部屋の隅へと向かった。

 そこには家庭用といった風の小さなバーカウンターがある。アルカはそこで卵を割り、それに牛乳やらブランデーやらを加えてシェイカーに入れた。

 仕上がったカクテルを、アルカはメリーアンの前のテーブルに置いた。

「ほら、エッグノッグだ。少しだけブランデーを入れてある。飲むと元気になるぜ」

 どうにも呑む気分にはなれない。しかしこのまま手を付けないのも失礼だと考え、メリーアンは仕方なくクリーム色のカクテルに手を伸ばした。

 そろそろとグラスの縁に口を付けた途端、メリーアンは紫色の瞳を見開いた。

「え、な、何これ……甘くて、良い香りがして……嘘みたい、味が――!」

「味がはっきりわかる?」

 向かいの席で酒瓶を手に取りつつ、アルカがにやりと笑う。

 メリーアンはこくこくとうなずき、またエッグノッグに口を付けた。クリーミーな甘みにスパイスの香りが刺激を加え、やみつきになりそうな味だった。

「は、はい、そうです。どうしても幽霊って味覚が鈍いから……ここまで鮮烈に味を感じたのは初めてです。すごい……すごく美味しい!」

「だろうね。ここ、ほとんど異界だもの」

 サラリとした口調で言って、アルカはグラスにリキュールを注いだ。

 しかしその一言に、くぴくぴとエッグノッグを呑んでいたメリーアンは硬直する。

「えっ、異界……?」

「魔女街は元々異界に近いんだ。だから君は物の味やにおいをぼんやりとでも感じ取る事ができた。そして、ここは【爆心地】の第六区」

 アルカは酒瓶に蓋をすると、自分のグラスに口を付けた。不規則に色を変えるダンスフロアの明かりのせいで、グラスに注がれた液体の色はわからなかった。

「爆心地……?」

「そう。かつて蛮神が降り立った場所――魔女街で、最も異界に近い場所」

 喉を鳴らし、アルカは美味そうにリキュールを呑む。

 そしてふっと息を吐くと、言葉も発せずにいるメリーアンを一瞥した。

「……信じられないって顔してるね。『異界に近いはずなのに、どうして他の街区より瘴気が薄いの?』って顔だ」

 図星だった。

 どうも心を見透かされたような気分になり、メリーアンは席に縮こまる。

 アルカはにいっと笑って、グラスの縁を指でなぞった。

「それはね、そういう風にしているからだ。放っておけばこの第六区に、この世の生物は入れない……それじゃいけない、ここは魔女街組合の窓口なんだから。だから誰でも入れるように、魔女街で一番入りやすいように環境に整えてあるってわけ」

「そんな凄まじい事をやってたんですか……!」

 メリーアンは仰天し、思わず椅子から腰を浮かせた。

「街区全体の瘴気を抑えるって、一体どうやって……! 魔女街の瘴気は異界との裂け目や、境界が曖昧な場所からずーっと噴き出している物でしょう?」

 瘴気は現界の生物にとっては有害だが、それを止めることはできない。

 故に瘴気に耐性を持つ種族以外はガスマスクを着用するか、清めの護符を身に付ける事によって対策している。さらに自宅には結界を張る、あるいは魔導機械によって瘴気を浄化するなどして人々は自分の生活を瘴気から守っていた。

「瘴気そのものを止める事はできないって旦那様も――!」

「さすがに止めちゃいないよ。抑えてるだけ。完全に止めるとおれが辛くなるし」

「あ……確かに、ずーっと止め続けているとマナの消費とかえらい事になりそうですものね。それに旦那様方みたいに、魔術の達人なら……」

 メリーアンは昨夜の出来事を思い返す。

 ルシアンとヨハネスはたった二人で裂け目を抑え、最終的には琥珀豹の助けによってそれを閉じた。あれは三人が卓越した術士だったためにできた芸当だ。並みの術士ならば数十人は人手が必要になる。

 アルカは微かに笑っただけで、何も言わなかった。

 いまいち腑に落ちないまま、メリーアンは椅子に腰を下ろす。そこでふと気づいた。

「でも、他の街区に窓口を置けば手間がかからないのでは?」

「それはダメ」

 メリーアンの言葉が終わるか終わらないかのうちにアルカは即答した。

「おれは基本的に、ここから出ちゃダメだから」

「え……? でも、たまに出歩いてる風な事を言っていませんでした?」

 言葉の意味を掴めず、メリーアンは呆ける。

 アルカはリキュールをちびりと呑み、軽く肩をすくめて見せた。

「……まぁ、ちょっとした小技で他の街区に出かけることはできるよ。それでも、おれ自身は絶対にここにいなきゃいけないの」

「……どうして、出ちゃダメなんですか?」

「さー、なんでだろうねぇ」

 アルカはあからさまにはぐらかすとグラスを一気に煽り、中身を空にした。

「時間が来るまで、少し話そうか」

 どこからともなく新しい酒瓶を取り出し、アルカはそれをグラスに注ぐ。そして不満げな顔をしているメリーアンの顔に、いつもどおりの軽い調子で言った。

「実はさ、おれと君はずっと前にも会った事があるんだ。君がおれの店に来る前――君がテンペストだった頃に、ね」

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