4.アシュタール=ラディアタ
「馬鹿っ、境界が……ッ!」
ルシアンの分の負担を喰らい、ヨハネスは歯を食いしばる。
ヨハネスの右手がさらに下がる。手首にまで裂傷が走り、地面に血が滴り落ちた。
鎖が何本か消失し、裂け目がさらに広がった。
アロブ=マブがガチガチと歯を鳴らしながら、さらに両手に力を込めた。その身に埋めた子供達に悲鳴を上げさせながら、現界へと身を乗り出す。
その時――豹の如く黒い影が駆けた。
「――断門ッ!」
凜々しい女の声とともに、青い電光が裂け目を押し止めた。
ルシアンが目を見開き、振り返る。
「シュエ! お前、何故――!」
「ちょっとぉ、いきなり本名で呼ぶの止めなさいな。びっくりしちゃうじゃなぁい」
そこに立っていたのは、あの東方人の女性――琥珀豹だった。
何故かルシアンのジャケットを羽織っている。微妙な表情をしているクラリッサの肩を片手で抱き寄せ、もう片方の手で境界を押さえ込んでいた。
クラリッサから飛び散る火花を相当量浴びているが、涼しげな顔をしている。
「貴方の上着を届けに来たら、この赤い髪のカワイコちゃんに助けを求められたのよ」
「……た、助けを連れてきたよ……あれ、あの、メリーアンは……?」
ぎこちなく言いつつ、クラリッサが辺りを見回す。
さまよっていたその視線は、やがてメリーアンの残骸へとたどり着いた。
「メリーアン……?」
オレンジの髪が炎の如く輝き、不安定に爆ぜていた火花がさらに激しくなる。
すると琥珀豹はクラリッサの耳へと顔を寄せ、それをべろりと舐めた。
「んうぅ――!?」
クラリッサの髪がぷしゅっと奇妙な音を立てて輝きを失う。
「ほらほらカワイコちゃん、落ち着いてぇ。深呼吸よぉ。――とりあえず境界は私が抑えてあげる。大丈夫よぉ、童貞に合わせるの得意なの」
体を丸めて震えるクラリッサの背中をさすりながら、琥珀豹はヨハネスに視線を向ける。
「それでそっちは大丈夫ぅ? 准教授さん、まだいける?」
「黙れ、痴女――ッ!」
悪態と共に、膝をついていたヨハネスがよろよろと立ち上がった。相当の反動を喰らったはずだが、左右の手はまだどうにか魔法を保っている。
荒く呼吸しながらも、ヨハネスは琥珀豹を忌々しげに睨んだ。
「リッサに、手を出したらッ……ただじゃおかないからな……!」
「あら、元気そうねぇ。それだけ威勢があればすぐに片付くわ。――あの子も、さすがに今回は動いてくれるみたいだし」
琥珀豹が空を見上げる。その視線の先に、赤い色が滲んだ。
ぼやけた色は瞬く間に質感を持ち、やがてその場所に赤いドアが現われる。
ベルの音とともにドアが開き、絶無の暗闇が口を開いた。
そしてその闇の向こうから、細い腕が伸びてきた。白いシャツの袖に包まれている。
アロブ=マブがひいっと息を飲んだ。
【あ、あ、せんのみて、あ、あしゅ、こうかてんし、あ、あしゅた、あ、あ、あ――!】
人形の眼窩で、重瞳の眼がグルグルと激しく動く。
同時にアロブ=マブの体がぎしぎしと軋むような音を立てて震えだした、肌に埋められた子供達は甲高い泣き声を上げ、白い腕を蛆の如く揺らした。
【――やりすぎたな、糞餓鬼】
男とも女ともつかない、かすかな笑い声。
同時に、ドアから伸びる腕が怯えるアロブ=マブを指さした。
その瞬間――暗闇の向こうから、赤く透き通った何かがどっと溢れ出した。
それは、腕だった。まるで陽炎で形成されているかのような腕は不規則に形を変え、五指を蠢かせながら、アロブ=マブへと絡みついた。
アロブ=マブは悲鳴を上げ、腕を振り解こうと全身を震わせた。
【やめてやめて! いじめないでよお! あしゅたある! あしゅたある!】
「やっちゃいなさぁい、ルシアン。――手負いでも、貴方なら蛮神を倒せるでしょう」
泣き叫ぶ蛮神を愉快そうに見上げ、琥珀豹が笑う。
ルシアンは冷やかにアロブ=マブを見上げ――鋭い歯を剥き出して笑った。
「……手負いのうちにも入らん、こんなもの」
直後、ルシアンの右半身が影に包まれた。
ざわざわと木々が騒ぐような音が響く。空気が淀み、月光が遠のく。
【はなしてはなしてあしゅたある! めいおうが! めいおうがぼくをころすよおお!】
幾千もの腕に拘束されたアロブ=マブが激しく身をよじり、泣き叫ぶ。
「……愉しいなぁ、アロブ=マブ」
右側の口を耳元まで裂かせて、ルシアンは思い切り右手を振りかぶる。すると右手を包む影が膨れあがり、巨大な鉤爪を備えた腕のような形になった。
波打つ影の中で、赤い瞳が地獄の火の如く煌々と光っていた。
【りゅうが! めいおうが! はいたいしが! あわれなるしおらのこがあああああ!】
「よい――」
せ、と。右手が宙を掻いた瞬間、影の刃が蛮神の顔面へと飛んだ。
轟音とともにアロブ=マブの上体が大きく揺らぐ。その人形の顔に黒いひび割れが無数に生じ、陶磁器が壊れるような音を立てて砕け散った。
眼窩に納まっていた重瞳の目が白濁し、どろどろと溶けていく。
赤ん坊の泣き声めいた悲鳴。断末魔の叫びと共にアロブ=マブの体は砕け散り、裂け目の向こう側へと崩れ落ちていった。
アロブ=マブの姿が消えた途端、裂け目は急速に縮み始めた。
やがて空間の傷口は閉じ――辺りは静まりかえった。
「……は、あ」
魔法を解除したヨハネスが膝に手を当て、荒く息を吐いた。
音も無くルシアンの半身から影が消える。
彼は黙って裂け目があった場所を見つめた後、地面に目を落とした。
「……シュエ。上着をよこせ」
「はいはい」
投げて渡された上着を受け取り、手袋を嵌めたルシアンは歩き出した。
その先には、メリーアンが【あった】。
メリーアンはほとんどが透明な破片となって地面に散らばっている。中には破片という形さえ失い、薄い霧状になっているところもある。
ルシアンは地面にジャケットを広げると、その上にメリーアンの欠片を集めていった。
その背後に立ち、琥珀豹は扇を広げる。
「……手伝いましょうかぁ?」
「いらん。魂の中に余計な情報を混ぜ込まれたら困る」
「ひどぉい。ま、勝手にやるけど」
琥珀豹はしゃがみ込むと、扇を使って器用にメリーアンの欠片を拾い上げた。
「……でも、ここまで砕けちゃって大丈夫なの? 蛮神の一撃を喰らったんですもの。このまま消滅しちゃうかも――」
「直撃は喰らっていない。それにこいつは無駄に頑丈だ、問題はない。……恐らくは」
ルシアンは珍しく言葉を濁らせた。
散らばった破片を見回し、彼は何度か小さくうなずく。
「……元々メリーアンは幽霊として破格の存在だ。再生能力も尋常ではなく高い。恐らく全ての破片を集められずとも、多少手間は掛かるが復元自体は可能だ。それでも、出来うる限り破片を集めた方が……」
どこか自分に言い聞かせるように語るルシアンに、琥珀豹はふっと笑った。しかし何も言わず、メリーアンの破片を集める。
そんな二人の元に、泣き出しそうな顔をしたクラリッサがそろそろと近づいてきた。
「あの、メリーアンは、あたしが……あたしのせいで……」
「そう思い詰めなくてもいい」
ルシアンがクラリッサの言葉を遮った。
「君が止めても、こいつはやっただろう。妙なところで頑固だからな」
「でも……」
なおも何か言おうとするクラリッサを、隣に立ったヨハネスが制する。彼はコートのポケットに手を差し入れつつ、ルシアンの傍に近づいた。
「……上着じゃなくて、これを使え」
ヨハネスが差し出したのはあの鉄騎蟲が封じられていた銀の瓶だった。
訝しげに見上げるルシアンに、彼はぽつぽつと語る。
「本来は魔物を封じ込める魔法だが――幽霊の保管にも使える。時間が経つにつれて幽霊の破片は霧状になっていくんだ。多分、こっちの方が良い」
「……感謝する」
「やめてくれ。君が感謝なんて。明日嵐になったらどうするんだ」
ヨハネスはわずかに唇を緩め、わざとらしく身震いした。
銀の瓶を手に、ルシアンは残った破片を見回した。その眉がわずかに寄せられる。
「……破片が少ない。頭の部分はどこにいった?」
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