4.不吉の紋章

「しかし、その試みは現在までほとんどうまくいってないんだな。悲しいねぇ」

 ドライフルーツを盛った器とカクテルとを盆に載せ、アルカがボックス席に向かう。

 それらを受け取ると、ヨハネスは物憂げな顔でグラスに口を付けた。

「魔物の血液がもたらす変異に、通常の人間は耐えられない。知性も人格も失った滅茶苦茶な怪物――キマイラに変異するだけだ」

「キマイラ……あの【虎】のようなモノのことですか?」

【虎】の姿を思い出す。マナを操る能力を持ちながら、自身の巨体を維持することさえ出来なかった出来損ないの怪物。

 メリーアンの問いかけにうなずき、ヨハネスはこくりと喉を鳴らして酒を呑んだ。

「ああ――しかし、今回ジャードという男が使った混合血液は違った」

「あの人は知性も、人格も保っていましたね」

 ジャードの蛮行は、明らかに薬物の昂揚によるものではなかった。明確な意思の元で獣人を獣と同じ存在だと言い切り、打算の上であの虐殺に臨んでいた。

「うむ。ただ、やはり身体が耐えられなかったようだが」

「大進歩だとは思うけどねぇ」

 ルシアンの言葉に、カウンターに頬杖をついたアルカがため息をつく。

「肉体が急激に変異すればマナの循環が間に合わず不調を来たす。逆にマナが急激に増えれば肉体はその増加に耐えられず破綻する。――ようはバランスが重要なのさ」

「話を聞く限り……ジャードはわずかな間でも、その均衡を保てていたように思える」

 興味深い。そう言いつつ、ヨハネスはカードをめくる。

 そこでアルカがふと思い出したように、すっと人差し指を立てた。

「そういえば、ディーくんがジャードに色々聞いてくれたみたいだけどね。ジャードはあの血液をジャック・ハウザーという人物からもらったらしいよ。知ってる?」

「そんな名前は知らないな。覚えていないだけかもしらんが。男に興味は無い」

「僕も知らない。人間に興味が無い」

「存じ上げません……別に興味が無いわけでなく」

 男二人の素っ気ない言葉に続いて、メリーアンは慌てて首を振る。

「おやまぁ可哀想に。ジャード最期の言葉だってのに」

 とても可哀想とは思っていなさそうな口調で言って、アルカはひょいと肩をすくめた。

「まぁ、ただこの名前を手がかりに頑張るしかないね。これ以上混合血液をばらまかれたらややこしそうだし。——というわけで今回も頼むよ、冥王様」

「なんだと? また我輩にやれというのか」

 煙草を口から離し、ルシアンはアルカを睨む。

 組んだ指の上に顎を置き、アルカはルシアンに向かってにんまりと笑ってみせた。

「おうとも。ここまで来たらとことんまで付き合ってもらうぜ」

「冗談じゃない。何故我輩がやらねばならんのだ? ちょうどそこに暇そうな准教授がいるではないか。おーいヨハン、仕事しようぜー」

「子供か」「子供ですか」

「重ねるな! 一度で十分だ! 我輩は面倒を人に回すためなら手段を選ばんぞ」

 メリーアンとヨハネスの二重奏に、ルシアンは鬱陶しそうに手を払う。

「残念ながらヨハン君には別件を頼んだのさ」

「別件?」

 アルカの言葉にルシアンは眉をひそめる。

 一方のヨハネスはドライフルーツを口に運びつつ、けだるげに言葉を発した。

「僕は拒否したはずだが」

「そう。ある人物を探せってね。念のため君にも教えてあげよう」

「無視か。もういい。僕は知らないぞ」

 目を伏せるヨハネスを完全に無視して、アルカはカウンターに一枚の羊皮紙を載せた。

 紙の上部には『アロイス・ヴァイン』という名前が走り書きされている。続いて、その人物に関する大ざっぱな情報が細かな文字で記されていた。

 ルシアンはメモにざっと目を通すと、不機嫌そうに唇を歪めた。

「金環教の元二等神官……信徒への虐待が発覚し破門か。なぜこんな奴を探している?」

「多分そいつ、魔女街に入り込んでる」

 アルカは言って、リキュールをグラスに注ぐ。

 血のように赤いその液体を軽く揺らしながら、アルカはやや声のトーンを落とした。

「最近、魔女を狙った殺しが続いているのは知っているね」

「ええ……確か、第三区と第五区にまたがって起きているとか」

 先ほどクラリッサから聞いた話を思い出し、メリーアンは表情を曇らせた。

 すでに十人が殺されたという。いずれも鋭利な刃物によるもので、被害者は全員魔女であること以外に共通点はない。性別も出身も別々だ。

「今朝、新聞にも載ったな……一面の隅の方だったか」

「ああ、犠牲者が二桁台に突入したからね。外界だと一人目の時点で載るんだろうけど、ここじゃ人死になんてありふれたものだし」

「だが連続殺人自体もさして珍しくはない。昨夜の第七区で、一体何十人死んだか」

 ふっと紫煙を吐き、ルシアンは軽くアルカを睨んだ。

 魔女街で一日平均何人が死んでいるのか。それを数えるのは、浜辺の砂を数えるのと同じくらい無意味な事だと言われている。

「……きみの言いたいことはわかるぜ。どうせ『組合が動くほどの事か?』だろ」

 アルカはリキュールを飲み干すと、カウンターの下に手を伸ばした。

「本来、ただの連続殺人なら組合は動かない。……が、今回はちょっと厄介な感じでね」

「厄介な感じ、とは?」

 首をかしげるメリーアンの前に、アルカは三枚の写真を置いた。

「これは……殺された魔女達ですね」

 メリーアンは眉を寄せ、その凄惨な写真を見つめた。

 男一人と女が二人。皆身体を徹底的に切り裂かれて絶命している。白黒の色彩にも関わらず、血のにおいや肉に残った熱までが伝わってくるように思われた。

「実はさ、犠牲者には『魔女である』という事以外にも共通点があってね。新聞社の友達にお願いして、そこは伏せてもらったんだ」

「……ほう。何かよほどまずいモノがあったのか?」

 ルシアンの言葉にアルカは肩をすくめると、写真を示した。

「全員、体のどこかしらに聖痕が」

 それは、女の死体の写真だった。薄暗い路地裏に倒れ伏したその体は徹底的に裂かれ、開かれ、ほとんど原型を止めていない。

 よくよく見ると、かろうじて残った右の掌――皮膚の上に、ある印が焦げついていた。

 メリーアンは紫の瞳を見開いた。

「重なり合う円環に三点星……!」

「……金環教主神、セル=アウルバオトの紋章か」

 口元を隠すように煙草を吸いながら、ルシアンはすっと目を細めた。

 セル=アウルバオト――それは黄金の蛇の姿をした蛮神だという。人間にも扱いやすい金環式魔術を伝えた事から、『円環主』『慈悲持つ者』と崇拝されている。

「ご丁寧に塩と香油を使って、周囲を浄化した痕跡もあった」

 ボックス席でヨハネスが物憂げにため息をついた。

「おかげであの辺り、この世の生物が存在できないレベルで環境がキレイ。最近破門された奴であそこまでの浄化を行えるのはこいつくらいだ」

 アルカは子供っぽく唇を尖らせると、アロイスの名前をとんとんと指先で叩いた。

 ヨハンが「共通点はまだある」と疲れたように付けたす。

「殺人現場は皆、異界との境界が大きく揺らいでいた」

「それは少し、まずいのでは? 強力な魔物や、最悪蛮神が入り込んでくるのでは——」

 メリーアンはボックス席を振り返る。

 すると、少しずつ酒を呑んでいたヨハネスはけだるげに首を振った。

「そこまでの揺らぎではない。だが境界を直そうにも、不自然に清められた空間のせいでこの世の生物は半径五フィート以内に近づけない状態だ」

「おれも吐くかと思ったよ。まぁ、境界に関しては今のところどうにかしてるけど」

 アルカはカウンターにまな板を載せると、背後の小さな冷蔵庫を開けた。

 直後、まな板の上に大きなローストビーフの塊が置かれた。アルカはそれをナイフで少しずつ切り取り、小皿に取り分けていく。

 メリーアンは手元の写真を見下ろし、紫の瞳をそっと伏せた。

「この人達も、きっと金環教から魔女街に逃げてきたんですよね。どうしてこんな……」

 聖痕を焼き付けられ、全身をずたずたに切り裂かれた魔女達。

 彼らもまた、金環教の征伐から魔女街に逃れてきた者のはず。なのに何故、このような死に方をしなければならなかったのだろうか。

「前にも言ったが、魔女街は楽園ではない」

 グラスに浮かぶ氷をこつこつと突きつつ、ルシアンは唇の端を下げた。

「運が悪ければ死ぬ。どこであろうとそれは変わらんよ」

「まーね。ただこれ以上、こいつに好き勝手やられるのは御免だわ」

 カウンターに置かれていたアロイスのメモを取り、アルカはそれを軽く睨む。

「知っての通り、教会の連中はこの街を滅ぼしたくて仕方がない。――破門した祭司を街に送り込んだ可能性があるのね」

「街を消せば破門を取り消す……そう吹き込まれてやってきた連中が前にもいたな」

 冷めた表情でルシアンが煙草をふかす。

 アルカはうなずくと肉を盛りつけた小皿を盆に載せ、その場の全員に配った。

「あちらさんからすると一石二鳥なのさ。組織内の異常者を体良く処分できるし、魔女街にもそれなりに打撃を与えられるわけ」

「それで、我々にそのアロイスとか言う奴を処分しろと」

 口から煙草を離し、ルシアンは不満げに眉を吊り上げた。

 アルカはにっと笑ってうなずいた。

「ああ。冥王様と看守様がいれば、何も怖い事なんてないだろう?」

「看守様、とは……?」

 聞き慣れない言葉にメリーアンは戸惑う。

 するとルシアンとアルカの視線がボックス席に向かった。バー全体の注目を浴び、ヨハネスは居心地悪そうにコートの衿に口元を埋めた。

「……昔、国土一つを呪ったことがあって」

「こ、国土一つ……」

 あまりに壮大な規模にメリーアンは絶句する。

 国土。魔女街ではあまり聞かない言葉だ。一体どれだけの広さなのか。ゴールドランド合衆国の州の数さえ知らないメリーアンには想像もつかない。

「……それ以来、皆からそんな大層な名で呼ばれるようになってしまった」

「自分でも気に入っているくせに。魔術を使うための称号にも使っているだろう」

「君よりはマシだ。『冥王が告ぐ』なんて、到底言えない」

 にやにやと笑うルシアンに、ヨハネスは深くため息をつく。

「……それに、術号は多少大仰な方がいいんだ。魔術の精度は精神に左右されるから。『自分が偉大なものである』と自覚できるような名前がいい」

「そうだねぇ。蛮神も堂々とした奴の話なら聞いてやろうかって気になるし」

 言いながら、アルカは薄くそぎ落とした肉をナイフで器用に口へと運ぶ。

 死体の写真を見た後だといまいち肉を食べる気になれない。

 メリーアンが小皿をそっと横に押しやると、当然のような顔でルシアンが奪い取った。

「ともかくだ。それぞれの務めはしっかりと果たすように。……あ、メリーアンちゃんもお願いねー。この際、きみが頼りだ」

「え、わ、私……?」

 メリーアンは慌てて姿勢を正した。

 アルカはカウンターに頬杖をつき、ナイフを片手でくるくると回す。

「ああ、きみには期待しているからね。なんなら、きみが全て解決しちゃってもいいんだぜ? キマイラの件も、魔女殺しの件も」

 そこでアルカはナイフを弄ぶ手を止め、ずいっとカウンターから身を乗り出してきた。

 青い瞳が間近に迫り、メリーアンはわずかにのけぞる。

「え、えっと、でも私は……」

「そうしたら、ルシアンも認めてくれるんじゃない?」

 思わず息を呑んだ。

 目を見開くメリーアンに、アルカは意味ありげに唇を吊り上げる。

「……メイドを焚き付けるな」

 ルシアンの声に我に返る。

 見れば主人は新しい煙草を取り出そうとする手を止めて、アルカを睨み付けていた。

 アルカはいたずらっ子のように舌を突きだし、身を引いた。

「おっと、これは失礼。――それでは冥王と看守の名にふさわしい活躍を期待しているよ」

 ナイフから滴り落ちる血を指先に絡め、アルカは優美に唇を吊り上げる。

 その言葉にルシアンは忌々しそうに鼻を鳴らし、ヨハネスはむっつりと黙っていた。

 一方のメリーアンはそっと虚ろな胸を押さえる。

 ルシアンも認めてくれるんじゃない――その言葉が、何故だか耳に残って離れなかった。

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