2.旦那様は殺すことができない
そこは第四区のどこかだった。朽ちた聖堂の聳えるうら寂しい丘。枯死した木々の茂る林の向こうに、墓場めいた廃墟の群れが見えた。
ひどい荒れ模様だった。冷たい雨が横薙ぎに降り、逆巻く雲を時折紫電が切り裂いた。
そんな嵐の中、メリーアンはいた。
――ああ、また私は夢を見ている。
内心ため息をつく彼女の目の前には、ルシアンが立っていた。黒いスーツは雨に濡れ、一つに括った黒髪を雨風になびかせている。
その赤い瞳は、ただまっすぐメリーアンを見つめていた。
これは夢なのだろうか。それとも現実なのだろうか。
きっと、ルシアンに問いかければわかる。メリーアンはそう考え、口を開く。
彼の存在はいつも、メリーアンの絶対的な指標だった。
夢でも現実でも、ルシアンに問えばなにかしら答えは得られる。
メリーアンは声を発した。
「A――AAaaaaaaaaaaa―――――hhhhhh!!!!!!」
これは、なんだ。
旦那様。そう呼んだはずだった。
けれどもメリーアンの口から飛び出したのは、言葉の形さえ失ったような剥き出しの衝動そのままのような絶叫だった。
そしてその叫びが地表に響き渡った瞬間、感情の濁流が胸に押し寄せてきた。
莫大な情報量が体の中央で弾け、構成霊素をびりびりと震わせる。
――怒り狂っている。
スパークする思考の中で、どうにかメリーアンにはそれだけわかった。
それはゲファンゲネに押し潰されかけた時に感じた物と同じ怒り。ただあの時と違い、現在のメリーアンは怒り狂っている自分の姿をどこか遠くから見つめていた。
そして、一つ思い出した。
自分はずっと、この憤怒の念を抱え込んでいた。
怒りの対象がなにかさえわからない。長い年月の中で、その記憶は流れに弄ばれる小石の如く摩耗し、消えてしまった。
ただ、全てに怒り狂っていた。全てを憎み、万象を呪い、なにもかもを嫌悪した。
かつてメリーアンだったものを満たしていたのは、そんな感情だった。
メリーアンは――テンペストは万物に憤怒を向けていた。
そして今、森羅万象に怒り狂う者の感情はたった一人へと集中している。
「……なんだ、よく見ると美人ではないか」
烈火の如き怒りを向けられつつも、ルシアンはにやりと笑う。
見れば彼の左手には、見覚えのない長剣が握られていた。飾り気のない柄と鍔はくすんだ金色。そしてその刃は、まるで闇から打ち上げられたかのように黒い。
それは恐らく、冥王が使うという魔剣――コラプサー。
彼は、剣を持っていたのだ。だがあの剣は今、一体何処にあるのだろう?
剣の行方を思うメリーアンの耳に、絶叫が響き渡った。燃え盛る感情をそのまま吐きだしたようなその声は自分――テンペストのもの。
悪霊の叫びに答えるように雲が渦巻き、雷鳴が轟く。
風雨はますます強まり、地表の全てを薙ぎ払おうとしているようだった。
これはただの嵐ではない。
テンペストの思念がもたらした、天災級のポルターガイスト現象だ。
なんということだ。かつての自分が持っていたあまりに強大な力にメリーアンが愕然とする中、ルシアンはくつくつと笑った。
「まだ暴れる元気があるのか。相当なじゃじゃ馬だな」
コラプサーがゆるりと持ち上がる。その瞬間、風と雷鳴の音が遠のいた。
辺りが暗くなる。空気が冷えていく。それはまるで夜が招き寄せられたかのような――。
「――しかし、そろそろ跪いてもらおうか」
ルシアンは左手を鋭く振るう。黒い刃が唸りを上げ、斜めに空を切り上げた。
その瞬間、視界が黒い線に引き裂かれ、そして――。
「――う……ッ!」
メリーアンは我に返り、そしてようやく自分の状況を把握した。
そこは明滅する白い空間だった。様々な色彩の光が周囲を流れ、渦を巻く。明るさだけを除けば、その場所はゲファンゲネの体内に似ていた。
メリーアンはその只中に囚われていた。
青白く光る無数の鎖と枷が各所に取り付けられ、身動きがとれない。
「――アルタイル卿。貴方には第三級冒涜罪を犯した疑いがある」「アッシャータ、お前、母親がいないって本当か?」「やはりスカードの血のせいだ、だから彼は頭がおかしいのだ」「ごらん、あの耳。悪魔みたい」――流れる光が触れるたび、様々な声が聞こえた。
そしてその全てが、恐らくはアッシャータの記憶に関わるもの。
「……アッシャータ様に、取り込まれたんでしたね」
光る枷に封じられた手首を睨み、メリーアンは呟く。
鎖がどこに繋がっているのかは定かではない。拘束されてはいるものの、動かそうと思えば体は動く。そして、五体の感覚はいつも通り曖昧だ。
ただ、断続的に訪れる恐ろしいほどの倦怠感がメリーアンを苛んでいた。
「ぐっ……」
拘束された鎖を通じて、何かが抜き取られるような感覚。
メリーアンはそれに喘ぎつつ、必死で思考を巡らせた。
いままで誰かに憑依したことはない。マナの量が多すぎるメリーアンは通常の人間では肉体の容量が足りないため、入り込むことができない。
しかし、アッシャータはメリーアンを取り込んだ。
狙いは恐らく自分の持っている莫大なマナ。
時折のしかかる倦怠感は、きっとアッシャータがメリーアンのマナを使っているため。
「……旦那様と、戦っているのかしら」
だとすれば――メリーアンは泣き出したい気持ちになった。
結局、監獄館から出ていくべきではなかった。
ルシアンの言いつけを破ったせいで、余計に事態は悪化してしまった。
「なんで私はこうなのかしら……」
役に立とうとして、いつもから回りする。
そもそも自分は一度でもルシアンの役に立ったことがあるだろうか。
アロブ=マブに吹き飛ばされていれば良かった。アロイスに消されていれば良かった。ゲファンゲネに呑まれていれば良かった。【虎】に潰されていれば良かった――後悔と自責の感情ばかりが胸につのる。
そのせいだろうか。曖昧だった感覚が更におぼろげになるのを感じた。
ゆるゆると視線を手足に向けると、拘束された手足が徐々に透き通っていくのが見える。
ゲファンゲネの意識に押し潰されそうになった時と同じだ。
今のメリーアンは、アッシャータに取り込まれようとしている。
「っく……うう……!」
あまりの情けなさと、自分の惨めさに泣き叫びたくなる。その衝動のままメリーアンが叫ぼうとした時、流れに乗ってきた赤い光がその胸に触れた。
その時、静かな――そして今までになく強い声が、メリーアンの耳を衝いた。
「――やってくれたな」
雷雨が切り裂かれた。
地上からいくつもの影の槍が立ち上がる。雲を貫き迫るそれに、飛行するアッシャータは弾かれたように両掌を突き出した。
轟音一発。青白い鬼火が影を打ち消し、荒天に大輪の花を咲かせた。
「やった!」
まるで子供のようにアッシャータが歓声を上げる。
しかし、その視界の端を黒いものが駆けた。鬼火と影とに気をとられていたアッシャータがはっと我に返った時には、すでにルシアンの靴が鼻先に迫っていた。
十分に威力を上乗せした回し蹴りが側頭部を捉え、押し潰す。
鉛色の雲に幾重もの大穴を穿って、アッシャータの体が地表へと叩き落とされた。衝撃とともに瓦礫が吹き飛び、そこに巨大なクレーターが穿たれる。
「――スーツが台無しだ」
低い呟きとともに、ルシアンは軽やかに地上に降り立った。
アッシャータの斬撃は彼に重傷を与えるまでには到らなかった。
しかしその上等なスーツは両腕の部分がぼろぼろになり、治り掛かっていた左手の傷はまた血を滴らせている。そして、頬には一筋の裂傷が走っていた。
「しかも顔に傷を付けた。これは万死に値する」
ルシアンは忌々しそうな表情で頬に手を滑らせ、傷を消した。
クレーターの中で、何かが揺れた。雨に煙るその向こう側を睨み、ルシアンはわずかに鋭い歯を剥き出した。
「……挙句の果てにメイドだ。やってくれたな、本当に」
「意外だな。そこまでメリーアン嬢を気に入っていたのか」
クレーターの中央でアッシャータが立ち上がり、ニヤリと笑う。潰れかかっていたその側頭部は青白い光を発しながら肉が湧き上がり、急速に再生していった。
「他の女性には甘い言葉を囁くわりに、あの子はあんなに素っ気なく扱っていただろう。そのわりに、自分の手元から奪われたらそんな顔をするんだな」
ルシアンは答えず、スーツの上着を脱ぎ捨てた。
ベストとシャツだけの姿でわずかに身を沈め、アッシャータを黙って睨む。
「ふふ、どうしたんだ? どこからでもかかってくればいい」
アッシャータは微笑み、緩く手を広げた。視界が豪雨に煙る中で、体躯を覆う青白い紋様がぼうっと光っていた。
ルシアンは答えない。
「――ならばこちらから」
何かが爆ぜるような音がした。
盛大な水飛沫がアッシャータの足下から立ち上がる。直後、アッシャータの姿はすでにルシアンの眼前にあった。
狂喜の笑みとともに、アッシャータは右の拳を大きく振りかぶった。
「喰らえ――《
右の拳が鬼火を揺らして突き出される。
ルシアンは慌てず、わずかに体を反らしてその一撃を避けた。なびく黒髪をかすめて拳が空を切り、そこから放たれた衝撃が雨を散らして地表をえぐる。
すり抜けるアッシャータの体。その側面を、ルシアンの銃口がまっすぐに狙った。
カーネイジが火を噴き、アッシャータの右脇腹を撃ち抜く。低い呻きとともに、アッシャータの体は弾かれたように飛ぶ。
しかし彼は難なく体勢を立て直し、痛そうに血の零れる銃痕をさすった。
「むう……ッ! 至近距離から撃たれるとこんなにも痛いのか」
「そこは死んでおけ。嫌な男だな」
「いや、そういうわけにもいかないぞ。そもそもこれは殺し合いだ、だから――」
ルシアンはさらにフルオートで全弾アッシャータに撃ち込んだ。
立て続けに血飛沫が上がった。話の途中で完全に油断していたアッシャータは「いたたたた!」と悲鳴を上げ、よろけるように大きく後退する。
しかし、倒れない。
「まったく! 人が話しているんだぞ! ああ、ひどいな!」
アッシャータは悪態をつきながら、体に力を込めた。青白い瞬きとともに、銃痕から溢れ出していた血は止まり、急速にその傷が癒えていく。
「……苛々するな」
舌打ちし、ルシアンは右の銃口を地面に向ける。
銃声。直後、地面に撃ち込まれた銃弾を触媒として魔法が発動する。無数の影が地表を突き破り、槍と化してアッシャータを襲った。
アッシャータはとっさに空中へと浮き上がり回避。
ルシアンが眉を寄せ、左手をぐっと握る。その意志に従って、地面から現われた影の槍がアッシャータを追い空中へと伸び上がる。
雨雲を切り裂き迫る影の槍をかいくぐり、アッシャータは両手を広げた。
途端ルシアンの魔法によって生じた大量の瓦礫や岩塊が静止し、鬼火に包まれた。それらはアッシャータの手の動きに合わせ、高く舞い上がる。
「《
アッシャータが両掌を突き出した。
同時に静止していた瓦礫が一斉に動き出した。鬼火をまとったそれの大半は影の槍にぶち当たりそれを相殺。残りは――。
「ああ! 腹が立つな、本当に!」
豪雨とともに迫りくる紫の流星群を視認し、ルシアンは地面を蹴飛ばした。
水しぶきが散った。さらに、その足下の影がざわりと波打つ。
「《
ルシアンの足下に、黒い裂け目が生じた。
叩き付けるような雨音の中で、森のざわめきにも似た奇妙な音が響く。裂け目は見る見るうちにせり上がり、やがて巨大な怪物の頭部が現われた。
たてがみと思わしき部位が風に渦を巻き、拗くれた角にも似た影が雷光に光る。
輪郭も定かではない漆黒の貌が、がばりと大顎を開けた。
直後鬼火の尾を引いて、瓦礫の雨が降り注いだ。しかしそれらは全て怪物の顎に飲み込まれ、ルシアンに傷一つつけずに消失した。
流星雨を飲み込んだ怪物は顎を閉じ、そのまま再び地面へと沈んだ。
魔法を納めたルシアンはそのまま銃口を上空に向ける。
しかし、その読みは外れた。
「ぐッ――!」
背後に嫌な気配を感じたルシアンはとっさに首をひねった。直後、それまでルシアンの頭があった場所をアッシャータの拳が唸りを上げて通過する。
体勢を立て直す間は、なかった。間髪入れず放たれる反対の拳を、ルシアンは捌こうとする。そしてすぐにそれを後悔した。
アッシャータの拳をいなした掌が、じゅうっと嫌な音を立てた。
「ちっ――その籠手は……!」
「ジャクリーンくんのとっておきさ! 一晩で仕上げてくれた!」
豪快な笑い声とともにアッシャータの膝がルシアンの腹部を狙う。
ルシアンはそれを背後に跳んで回避。十分に距離はとったはずだった。なのに、まばたきの直後アッシャータの拳が顔面に迫っていた。
「はあ――?」
思わず呆けた声を上げたルシアンの顔に、アッシャータはそのまま拳を叩き込んだ。
ほとんど爆音に近い音が響いた。
ルシアンの長身が冗談のように一気に吹き飛び、瓦礫の山へと叩き込まれる。轟音を立て、岩塊や木材の残骸が崩れていった。
アッシャータは拳を突き出した姿勢のまま、にいっと笑った。
「私の籠手に、ロイエリオンの剣を鋳溶かして作った金属板を貼り付けて作った。急ごしらえの品物だが――どうだい、今のはそれなりに応えたんじゃないか?」
「……顔を、狙ったな」
地の底から響くような低い声。
同時に、ルシアンがゆらりと瓦礫の山の上に降り立った。
その顔は小さな傷や汚れこそあったが、元の美貌をどうにか保っていた。
しかし、無傷ではなかった。
「まったく……おかげで久々に腕が壊れた」
ルシアンは唇を歪め、左腕を見下ろす。腕はまるで内部で爆発が起きたかのように血肉が裂け、折れた骨やら千切れた腱が雨に晒されていた。
そんな惨憺たる有様の左腕をだらりと垂らし、ルシアンはアッシャータを見下ろした。
「……ふうむ、とっさに左腕を盾にしたのか」
「我輩のこの超絶たる美貌が損なわれでもしたら大変だからな」
ルシアンは右腕で顔を拭い、破壊された左手を撫でた。
顔の細かな傷はそれだけで癒えた。しかし続く左手は血肉が繋がり、飛び出ていた骨は内部に収まったものの、無理やりまとめたような状態になっている。
「ちっ、本当に治りが悪いな……これで顔に喰らっていたら最悪だった。我輩のこの美貌が潰れるなんて世界の損失だ。考えたくもない」
「…………前から思っていたが、そんなに自分の顔が好きか?」
「好きに決まっているだろう、最高だ。いつ見ても飽きないな」
ルシアンは当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。
誇るようなその顔に一瞬影が差した。
「……それに、この超絶たる美貌はあの人が唯一我輩によこしたものだからな」
それは叩き付ける雨音にさえ掻き消されそうなほどの囁きだった。
しかし、キマイラの耳はそれを聞き逃さなかった。
「あの人?」
尖った耳をぴくりと揺らし、アッシャータは眉をひそめる。
どうにか左腕を直そうとあれこれ手を加えつつ、ルシアンは嘆息した。
「世間一般では母親と呼ぶらしいが……我輩にその資格があるかもわからん。――やれやれ、痛すぎて余計な事を喋ったな」
「ならばついでに教えてくれ」
「なんだ? 我輩の左腕を壊した、貴様をどれだけむごたらしく殺すかか?」
「何故、殺す気でかかってこない?」
沈黙が落ちた。
若干ましになった左腕から顔を上げ、ルシアンはアッシャータを見る。
その顔にはなんの表情もない。赤い瞳は硝子球のように冷たく無機質に、困惑するキマイラの姿を映していた。
「途中まで、君の攻撃には殺意があった。君の一挙一足全てが私を殺すために成されていた。だが今は違う。銃撃も、魔法も、格闘も――全て、ためらっている」
「我輩が? ためらう?」
アッシャータは渋面で「そうとも」とうなずいた。
するとルシアンは唇を歪め、くつくつと低い笑い声を漏らした。
「くくっ……これは愉快なことを言うな。この我輩が戦いをためらうなど――」
「幽霊は二度目の死には耐えられない」
アッシャータは淡々とした口調で言った。
太鼓の乱打にも似た雷鳴が大気を震わせた。鉛色の空を紫電が切り裂き、笑みの消えたルシアンの顔を照らし出す。
「故に私を殺せばメリーアン嬢は消滅する」
アッシャータの言葉は、はっきりとルシアンへと伝わった。ルシアンは赤い瞳を細め、射貫くようにアッシャータを睨む。
今度はアッシャータが笑い出した。
「そうか。なるほど……ふふ、そういうことか! あっはっはっは! 冥王も人の子というわけか! 自分のメイドが死ぬことを恐れて、近づけないでいるのだな!」
「……戯言も大概にしておけ。我輩に恐れるものなどはない」
「ならば何故、殺す気で向かってこない? 君はいくらでも私を殺せただろうに」
アッシャータの問いかけに、ルシアンは黙り込んだ。
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