3.星は天に無く

 雨はますます強くなってきた。

 ぐっしょりと濡れた銀の髪をかき上げて、アッシャータは軽く肩をすくめてみせた。

「簡単だ。……君は、メリーアン嬢を消したくない。だから、私を殺せない」

 稲妻が鉛色の空を切り裂く。

 雷光が瞬く中、ルシアンは黙りこくったままアッシャータを睨んでいた。黒髪がすだれのように顔にかかり、その狭間から赤い瞳がぎらぎらと光っている。

 熾火のように光るその目を見つめ、アッシャータは不思議そうに首をかしげた。

「――しかし、不思議だ。君が様々な女性と浮き名を流していることは知っている。けれども私が見た君は、メリーアン嬢をずいぶん素っ気なく扱っていた。だからてっきり君はあのメイドの事などどうでも良いのだと思っていたが……そのわりに、どうしてメリーアン嬢に固執する?」

 ルシアンは答えない。

「確かにメリーアン嬢は美しい。しかし、もっと優秀なメイドはいくらでもいるだろう。見目の麗しい少女だって珍しくはない。幽霊をメイドにする事も不可能ではない。……あのメイドの代わりは、いくらでも揃えられるだろう?」

 ルシアンは黙ってベルトのバックルをいじった。

「わからない。不思議で仕方がない。どうしてあの子なのだ? 実際のところ、あの子を気に入っているのか? 疎んじているのか? 君のメリーアン嬢に対する言動は、私にとっては不可思議で仕方がない。一体――」

「――我輩だってわからんよ」

 アッシャータの声をさえぎり、ルシアンは深くため息をついた。

 びょうびょうと風が唸る。濡れた髪をかき上げ、彼はゆるゆると空を見上げた。

「あんな小娘に、何故この冥王ルシアン=マレオパールが振り回されているのか――あんな小娘が、何故我輩のような男を慕うのか」

 淡々と語って、ルシアンは瞑目する。そうして再びため息一つ。

 その時、いつもの堂々とした冥王の姿はそこになかった。そこに立っていたのは、ただ理解できない感情に途方に暮れている一人の男だった。

「……まったくもって理解できん。何故、メリーアンでなければならんのだろう。メリーアンはなんだってこんな我輩を見捨てんのだろう。理解できないことが多すぎて時々、ひどく苛々する。ただ――」

 ルシアンは首をゆっくりと振り、目を開いた。

 激流の如く流れていく雲を見つめて、彼は一つ一つ確認するように呟いた。

「……あれは我輩を信頼し、忠誠を誓っている。愚かで醜く傲慢なありのままの我輩に、あの馬鹿者は体を千々に砕いてまで忠義を示した」

 誰もそこまで求めなかった。

 それどころか、誰もがメリーアンにルシアンを捨てていけと言った。あんなクズは放っておいて、新しい主を探しに行けと。

 それでもメリーアンは、ルシアンを見捨てなかった。

「……あれには感情の自由を許している。心の底から解放を望めば、いつでも手放してやるつもりだった。元々物珍しさから捕まえたようなものだったからな。――だが、あいつは解放を望まなかった」

 メリーアンは、一度も「自由にしてくれ」とは言わなかった。

 例えその魂がかつての主従契約によって縛られていたとしても、メリーアンは新しい主人を探そうとするそぶりさえ見せようとしなかった。

 感情の自由を許されているが故に、口ではさんざん主人のことをなじった。

 それでも、メリーアンの根本にあったのはルシアンへの忠誠だった。彼女は解放を望まず、それどころか見捨てられることを何よりも恐れた。

「あの愚直なメイドの信に応えるのが、主としての我輩の責務であると思っている」

「……奇妙な主従だな、君達は」

 困惑したような声に、ルシアンは視線を地上に下ろす。

 アッシャータは訝しげな顔でルシアンを見ていた。叩き付けるような豪雨の中、体表を覆う青白い光がぼうっと広がっていた。

「君達はお互いに、お互いの事を理解していないのだな」

「理解できるとも思っていない。そしてそれで良いと思っている。昔、相手のことを完全にわかった気になって死にかけたからな」

「ロイエリオンか」

「ロイエリオンだ。あれ以降、いちいち意識して誰かを理解しないようにしている。考えてわからないものは、わからないままで良いのだ――ただ」

 ルシアンは言葉を切り、アッシャータをじっと見つめた。

 正確には、アッシャータの目を見た。

 紫色に煌めく瞳。菫のような――あるいは紫水晶のようなその稀なる色は、それはメリーアンを奪い取ったゆえに獲得した色。

 それを見て、ルシアンは笑った。

 その微笑を挑発ととったのか。アッシャータも唇を吊り上げ、構えを作った。

 青白い紋様が明滅する。それに呼応するように、暴風が彼の周囲で唸りを上げた。

 雨を巻き込んで立ち上がる旋風を見上げ、ルシアンは口を開く。

「――理解はできない。それでも、信頼することはできる」

 雨音にさえ掻き消されそうなその声は、地を蹴ったアッシャータには届かなかった。

 けれどもその身の内の彼女には、確かに届いた。


 アッシャータが完全にキマイラへと変じようとしている影響だろうか。

 白い空間にまたたく色彩の奔流はより激しく、入り乱れる感情はより脈絡のないものへと変わりつつあった。

 その中央に囚われたメリーアンは、両手両足に力を込めた。

「ぎ、い、ぃいいい……!」

 みしみしと四肢が軋む。しかし、その体にまとわりつく青白い光の鎖はびくともしない。

 それでもメリーアンは歯を食いしばり、必死で鎖を引きはがそうとする。

「こッ……の……! 情けない……ッ!」

 修復間もない体は脆い。すぐにメリーアンは全身に亀裂が走ったのを感じた。

 剣で幾千にも体を切り刻まれるような激痛。それとともに、ピシリピシリと音を立てて肌がひび割れ、破片がこぼれ落ちていく。

 それでも、メリーアンはやめない。

「どうにか、しないと……早く、早くどうにかしないと……!」

 泣き喚いてなんになるというのか。

 一度でもアッシャータに屈し、取り込まれかけた自分が情けなくてたまらなかった。

 悲しみではなく悔しさの涙を零しながら、メリーアンは鎖を振り解こうともがく。

 鎖がギリギリと音を立てて肌の亀裂に食い込んだ。

「あの人があそこまで――あそこまで、言ってくれたのに……!」

 あの時、ルシアンはアッシャータを見ていなかった。彼は確かに、アッシャータの身の内に封じ込まれたメリーアンの存在を捉えていた。

 アッシャータの肉体越しにメリーアンを見て、彼女に向かってああ言ったのだ。

 ――理解はできない。それでも信頼することはできる。

「旦那様があそこまで言ってくれたのに……ッ! あの人が、私を信じるっ――だからここでッ――こんなところでッ、消えてたまるかァアア――!」

 硝子の砕けるような音が響いた。

 一瞬の解放感の後、左手の手首から先に爆発したような痛みが走る。

「ん、ぐ、ぃ、いい……!」

 飛び出そうになる悲鳴を噛み殺し、メリーアンは自分の左手を見た。

 さんざん暴れた影響で生じた亀裂。そこに鎖がめり込んだ結果、ついに左手は破断した。

 それでも、これくらいの損傷ならば自己回復は可能。

 メリーアンは歯を食いしばり、左手の形を必死で思い起こす。壊れた手首から先に光のもやが纏わり付き、やがてそれは元通り手の形を成した。

 何度か指を動かし、メリーアンはグッと拳を握る。

「よ、し……よし!」

 クラリッサの蛮神の火に焼かれた時のような後引く痛みは感じない。構成霊素エクトプラズムへの損傷は痛みほど派手ではないようだ。

 しかし――メリーアンは顔をしかめ、自分の体を見下ろす。

「つっ……無理に振り解くのはこの一本が限界かしら……」

 傷はエプロンドレスと黒いワンピースに隠されていて見えない。しかし、メリーアンは今の自分の体に蜘蛛の巣状に亀裂が走っていることはわかった。

 残りの鎖を無理に振り解けば、全身が砕け散りかねない。

 そして全身が砕け散れば復元は容易ではない。ただでさえメリーアンは病み上がりだ。今の状態では、全身の自己修復は不可能に近い。

「鎖だけ壊せばッ――《虚ろな太鼓ゴーストドラム》!」

 メリーアンは左手を突き出し、残りの鎖に向かって衝撃波を放った。

 しかし、この試みはうまくはいかなかった。放った衝撃波は途中で奇妙に歪み、その威力を失ってどこかへと吸収されてしまう。

「これは……アッシャータ様に吸い取られているんだわ……」

 アッシャータはメリーアンを、いわばマナの電池として用いている。

 キマイラの肉体は燃費が悪い。その細胞は貪欲にマナを欲し、飲み込んでいるようだ。

「どうしよう……何か、何か手はないの……?」

 無理に振り解けば全身が破壊される。

 かといって鎖を破壊しようとしてもマナを吸い取られてしまう。

 打つ手はない。それでも、ここで諦めるわけにはいかない。こんな状態のメリーアンに出来る事は、思い出すことだった。

「なにか……なにか役に立ちそうなこと……」

 メイドキャップのリボンを左手で弄びながら、メリーアンは必死で頭を振り絞る。

 こんな状況を打開するような知恵を、誰か言っていなかったか。

「なにかあるはずよ! 私の周囲には魔女街でも一番すごい人達がいるんだから! きっと何か、こんな状態で役立つ知恵とか、術を……!」

 様々な記憶をメリーアンは迅速に――そして可能な限り丁寧に思い返す。

 必死に頭を振り絞るうちに想起は過去へ過去へと遡る。

 友人クラリッサは炎の術以外を使えないことをぼやいていた。

 人狼ディートリヒは不死身で、怒りによってその力を大きく増す。

 封印と解放の術を得意とするクラリッサの兄のヨハネスが、今いてくれれば。

 全てを見透かすような瞳をした琥珀豹と、ルシアンの関係は知ることができないまま。

「思い出して……! なにか私はきっと……どうにかできる術を持っているはずなのに!」

 ――ふっと、ルシアンとの出会いを思い出した。

 春の夜、メリーアンは月夜に照らされた壊れた礼拝堂で彼と出会った。

 その景色が、先ほど見たテンペストの記憶と重なる。

 あれはきっと同じ時、同じ場所だった。

 冥王との戦いに天魔は敗れ、嵐は過ぎ去った。そうして春の夜のメリーアンとルシアンとの出会いをもたらした。

 しかし、あれが同じ時の同じ場所だったなら――なにかが気になる。

 テンペストに黒い剣を振り下ろしたルシアン。

 しかし彼は――メリーアンと初めてであった時、完全に手ぶらではなかったか。

「剣……あの、黒い剣……旦那様はあの剣を、どこにやってしまったの……?」

 魔剣コラプサー。冥王がかつて振るったという剣を、テンペストは確かに目撃していた。

 そしてその剣の一撃が、テンペストを打ち倒したのだ。

 今、考えるべき事ではないかもしれない。

 たしかにコラプサーの行方はずっと気になっていた。しかしその剣の行方が今、わかったとしても――メリーアンにはどうすることも出来ない。

 確かに剣があれば鎖を断ちきれる。けれども今、その場所をメリーアンは知ら――。

「……いや」

 メイドキャップのリボンをいじるのを止め、メリーアンは左手を額にあてた。

 走り出した回想は止まらず、忘れ掛かっていた最初の頃の記憶を鮮明に描き出す。それはほとんど、走馬燈といっても良いものだった。

 最初、契約を結ぶ前のメリーアンの意識は暗闇の中にあった。

 そしてルシアンはそこに存在と名前を与え――メリーアンはルシアンの姿を視認した。

「あの時は剣を……持っていなかった……でも……」

 無意識のうちにメリーアンの左手は額を滑り、頬を撫で、そして顎へと伝う。

 ルシアンがメリーアンを顕現させる際に使った呪文。

 ――ルシアン=マレオパールの血と剣と名前を以って、幽かなるものに楔を打つ

 彼は確かに剣を持っていて、それを契約に使ったのだ。

「契約を結ぶときに使った……そう、そして……そして……」

 どうしてこんな緊急事態に、主の剣のことなどを考えているのか。

 メリーアンにはさっぱりわからなかった。

 けれども、今すぐに思い出さなければいけないと本能が叫んでいた。

 その衝動に押され考えていくうち、彼女の左手は顎から滑り落ち、鎖骨へ納まった。

 雑多な日々の記憶に埋もれ、忘れ掛かっていた春の夜の記憶。メリーアンは唇を噛みしめ、それを必死で思い返した。

 壊れた祭壇。足下に散らばる鏡の欠片。天井から覗く白い月。薄暗がりに立つルシアン。

 そこに到る前のメリーアンは暗闇の中にあり、ルシアンが存在を引きあげた。

 あの低く艶やかな声がメリーアンに呼びかけたのだ。

 ――我輩と契約しろ、幽霊。

 ――つまり我輩のメイドになれということだ。我輩の剣を預かり、我輩のために茶を淹れ、我輩のために菓子を用意し――。

「……預かる?」

 回想が止まる。

 かつての主人の言葉を繰り返したメリーアンの唇が震え、かすかな笑みを浮かべた。

 その左手は鎖骨を通り抜け、鳩尾へと到達する。

 そこに触れた瞬間、メリーアンは思い出した。

 どうしてあの夜のことを忘れていたのかもわからない。メイドとして必死で働くうちに、いつしかあの出会いの記憶は薄れてしまっていた。

 そう、忘れもしないあの台詞。

 ――そうだな。お前の名は……仮にメリーアンとするか。

 あの言葉で、ルシアンはテンペストを完全に打ち破ったのだ。理由もわからない怒りによって荒れ狂っていた悪霊は鎮められ、メリーアンに変じた。

 自分がテンペストと完全に同一の存在なのか、あるいは別の存在か。

 そんなことは、どうでもよかった。

 重要なのは暗闇の中で聞いたあの言葉。そしてあの言葉の後に感じた――鳩尾への衝撃。

 メリーアンは笑い声を立てた。左手の指がみしりと音を立てた。

「剣はあった……最初から――ここに!」

 叫び声とともに、メリーアンは左手の指を鳩尾に突き立てた。

 みしみしと音を立てて、指が『肌』へと沈み込む。熱い砂をかき分けるような奇妙な感触が指先に伝わってきた。同時に、灼けるような痛みが胸を焼いた。

「あ、ああ、がああァアアア――!」

 感じた事のない痛みに絶叫しつつ、構わずメリーアンは一気に手首まで胸に沈めた。

 流血するかの如く、青白い光が胸の裂傷から噴き出す。

 その光に照らされたメリーアンの顔は激痛に歪みつつ、しかし唇は確信に笑っていた。

「アアアア――! あああっ……Ah――! アアアアア――!」

 自滅行為だと頭の片隅で冷静な部分が囁く。自分で自分を貫くなんて、ついに気でもおかしくなったのかと。

 そして臆病な部分が囁く。――こんなことをして、私はメリーアンでいられるのか?

「うる――さい――ッ!」

 その時、なにか硬いものが指先に触れた。

 熱砂の只中にも似た胸の中で、それはひんやりとした金属質な感触をしている。

 メリーアンは目を剥き、それを思い切り掴んだ。

「う、ぎ、Ah、が、Ahaaa、ああああ……!」

 力を込めると、棒状のそれはずるずるとメリーアンの胸から現われた。

 鈍い金の柄と鍔。そこから伸びる刃はまるで闇から打ち上げられたかのように黒く、炸裂する光の中でもほとんど反射していない。

 ――魔剣コラプサー。星を喰う星の名を与えられた、冥王の剣。

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