19.其ハ深淵ヨリ人ヲ玩弄スル者

 肉体を引き裂くような凄絶な叫び声。――そして鈍い幽霊の嗅覚でもわかるほど、強烈な血のにおいが辺りに広がる。

「やられた……!」

 ルシアンの悪態が聞こえた。

 ほぼ同時に渦巻く霧がわずかに晴れ、ルシアンとアロイスとの姿が見えた。

 アロイスが、首から血を噴き出しながら崩れていく。ルシアンは銃口をアロイスに向けたまま、大きく舌打ちした。

「ちいっ、まさかこんな事になるとはな……!」

「何があった、ルシアン!」

 クラリッサを引き寄せたヨハネスが鋭く問う。

「口封じだ! この我輩としたことが、完全に油断していた! 霧のせいで相手の姿さえ見えなかったぞ!」

 ヨハネスに叫び返し、ルシアンはカーネイジを手に辺りを見回す。

 メリーアンは主人のそばへと駆け寄った。

「旦那様、お怪我は」

「我輩は問題ない。だが――このままでは済まさんぞ。下手人はまだ近くにいるはずだ。霧に残った痕跡をたどれば……」

 その時、構成霊素に嫌な震えが走った。

 思わず肩を抱え込みつつ、メリーアンはアロイスの死体を見る。

 青い瞳を見開いたまま、アロイスは事切れていた。

 切り裂かれた首から血液が溢れ出し、地面に赤い池を作り出している。

 その池から、ぽつりと雫が一つ浮き上がった。それを皮切りに次々に血の池から雫が生み出され、空へと消えていく。

 まるで、逆さまの雨のようだ。

 ルシアンも振り返り、その異様な光景をどこか呆然と見つめていた。

「旦那様」

 なにかがおかしいですよ――そこまで言う間もなかった。

 突如アロイスの死体の真上に、赤い裂け目が現われた。夜空に開いた傷口のようなそれを、四人は一瞬黙って見つめる。

 裂け目からさらに、細かな亀裂が走った。さながら流れ出る赤い血液に似ていた。

 途端、ルシアンとヨハネスの顔に今までにない焦燥の色がよぎる。

「ああ、くそ……今日は厄日だ」

 ヨハネスが悪態を吐いた。

 直後メキメキと音を立てて裂け目が広がり、辺りに赤黒い瘴気が溢れ出した。

 強烈な瘴気と共に、衝撃波が押し寄せてくる。メリーアンはとっさに念力で壁を張ろうとしたが、それよりも早くルシアンが左手で打ち払った。

「く……」

 小さな呻きが聞こえた気がした。

 しかしそれを問う間もなく、ルシアンが振り返らずにメリーアンに向かって手を払った。

「異界の境界が開いた……! メリーアン! お前は下がれ!」

「で、ですが!」

「黙って下がれ! 引きずり込まれるぞ!」

 いつになく激しい口調でルシアンは怒鳴った。

 メリーアンは気圧され、考える間もなく命じられるままに後方へと下がる。

「アルカめ……! いくらなんでもひどいぞ、これは!」

 唸りつつルシアンは右手の指を二本揃えて立て、呪術の印を結ぶ。

 そして、その手を裂け目に向けた。

「「――断門ッ!」」

 その叫びはヨハネスとほぼ同時だった。直後、二人の手から青い稲妻が迸った。

 それは裂傷へとぶつかり、広がろうとするそれを押し止める。

 電光を放ちつつ、ルシアンは唇を歪めた。

「まずいな……かなり大きく破れたぞ」

「アルカの店で言っただろう、元々アロイスのせいで境界は揺らいでいたんだ。それが今、アロイスの死を引き金に裂けてしまった――!」

 ヨハネスが苛立ったように首を振り、裂け目を睨み付けた。

「……だが、僕たち二人ならばすぐに塞げる。早くこの面倒事を終わらせよう」

「ああ、とっとと塞いで――」

「――それができたらよかったのにね」

 うなずくルシアンの言葉を遮ったのは、クラリッサだった。

 男二人とメリーアンの視線が、一瞬クラリッサに向けられる。それに対し、彼女は沈んだ表情で裂け目を指さした。

「なにか、来ちゃったみたいだよ」

 裂け目の向こうに、ゆらりと巨大な影がよぎる。

 直後けたたましい笑い声が響き渡り、裂け目がみしみしと軋みながら広がった。

「ぐっ、う……!」「反動が……!」

 ルシアンとヨハネスが同時に呻く。

 まるで重石を吊り下げられたかのように、二人の手がぐんと下がった。さらにその指先の皮膚がぴしりと音を立てて割れ、赤い血が滴り落ちる。

「あれは……!」

 ヨハネスが喘ぎながら裂け目を睨む。

 裂け目の向こう側から、その縁に巨大な手がかけられた。その数は、四つ。

 一見すると、それは人形の手に見えた。

 関節は球体関節で、肌の質感はつるつるとした陶磁器に似ている。

 しかしその肌には大量のおもちゃ、きらきらと光るガラクタと――生きていると思わしき人間や魔女の子供達の体が混ぜ込まれていた。

 肌に埋まった子供達は絶えず蠢き、手が動くたびに断末魔の叫びを漏らした。

「アロブ=マブ……」

 ヨハネスの声にはもはや焦りすらもなく、ただ疲労の響きだけがあった。

「アロブ=マブ……? それがあの魔物の名前――?」

「違う」

 ヨハネスではなく、ルシアンがメリーアンの問いかけを否定した。

 四本の手に力がこもり、アロブ=マブの頭が裂け目の向こうからせり出す。

 安っぽい質感の亜麻色の巻き髪。首にはギャザー飾りを付け、肩にはビーズ飾りを巻き、頭にはまるでおもちゃのような金色のちゃちな冠を被っている。

 かくりと首が音を立て、アロブ=マブの顔が正面を向いた。

 薔薇色の頬をした人形の顔。その右半分は割れ、暗い闇がわだかまっている。

 闇の向こうには、大量の虹彩を備えた眼があった。

 硝子質の水色の眼と、様々な色をした重瞳ちょうどうの眼が四人を捉える。

 その禍々しい視線を受け止めた瞬間――メリーアンはがくりと地面に膝をついた。

「ひっ、い……!」

 構成霊素がガタガタと震える。

 本能が、の視線を受けることさえ拒否している。隣ではクラリッサも耐えきれずにしゃがみこみ、きつく肩を抱き締めて震えていた。

 一方、ルシアンとヨハネスはその視線を受けてなお立ち続けている。

「マキナ神族のアロブ=マブ……。【行方不明事件の最大原因】、【真夜中に遊ぶ子供】、【人攫いの守護者】――あれは魔物ではない。そんな生やさしい存在ではない」

 ルシアンは流れるような口調で語り、アロブ=マブを睨み付けた。

 アロブ=マブの口がカタリと音を立てて開く。その向こう側には醜い灰色の歯肉がてらてら光り、黄ばんだ歯が乱杭状に並んでいた。

 むっと押し寄せてくる悪臭に眉を寄せつつ、ルシアンは呟く。


「あれは――蛮神だ」


 異界の神は――アロブ=マブはその瞬間、体を震わせてげたげたと笑った。

 蛮神の哄笑に、その体に囚われた子供達の絶叫が絡みつく。

 夜はまだ、終わらない。

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