15.破壊された憂鬱の獄
「――アァアアッ!」
炸裂した炎に顔を焼かれ、アロイスが悲鳴とともに後退した。
メリーアンもまた、膝をつく。オールワーカーが甲高い音とともに地面に落ちる。
「いっ、あぐっ……!」
今までに感じた事の無い激痛。その周囲に硝子片にも似た構成霊素のかけらがガラガラと音を立てて零れ落ち、雨中に霧散する。
「ご、ごめん……あたし……!」
青ざめた顔で、クラリッサがよろよろと下がった。
見れば、押さえていた右耳のピアスが一つ無くなっている。そしてその体の周囲で、ぱちぱちと不規則に火花が飛び散っていた。
先ほどの爆風で、護符を一つ無くしたのだ。
そしてそのせいで、普段抑えられていた蛮神の加護が暴走している。
これでもう、クラリッサは魔術を使えない。
護符がなければ、メリーアンごと焼き払ってしまうかもしれない。
アロイスを見る。焼けた顔面を押さえ、震えながらうずくまっていた。
彼女が喰らったのは魂さえ焼くと言われた蛮神の火だ。
流石に狂ったアロイスでも耐えきれなかったらしい。恐らく、今なら倒せる。
「平気よ、平気……全然大丈夫よ、クラリッサ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、メリーアンは立ち上がる。
右の肩口に触れる。するとそこから鬼火が噴き出し、かろうじて残っていた構成霊素の欠片を繋ぎ、右腕をどうにか復元する。
「これくらいどうって事ないわ……平気よ、平気……だってもう死んでるんだから」
振り返って、笑う。
まるで笑えない状況だったが、それでも笑う。
軋む
幽霊の強さは精神の強さ――そう言ったのは、一体誰だったか。
「今更、失うものなんてなんにもないわ」
オールワーカーを持ち上げ、メリーアンは呟く。
元々なにも持っていない。記憶も――命さえもメリーアンにはない。
ならば恐れる必要はなにもない。オールワーカーを手に、メリーアンは地を蹴った。
いつの間にか雨脚は落ち着き、周囲を灰色の霧が漂いつつあった。
淡く漂う霧の中、アロイスはまだうずくまったまま。
一撃で心臓を貫く。――メリーアンは狙いを定め、オールワーカーに鬼火を灯す。
そしてアロイスの背中めがけ、その切っ先を振り下ろした。
「――神よ、この試練に感謝を」
アロイスが顔を上げる。
焼け爛れた顔いっぱいに、恍惚と狂乱の笑みがあった。
彼女の左手が金色の光を帯びた。マナの火花を散らすそれが自分の胴へと向けられるのを、メリーアンはどこか呆然と見つめる。
「――――厄災の看守が告ぐ」
押し殺した何者かの声が聞こえた。
同時にジャラジャラと音を立てて、メリーアンの腰に無数の鎖が絡みつく。鎖に強く引っ張られ、メリーアンは無理やり後退させられた。
「うわっ……!」
背中から地面に倒れ込み、全身に走った痛みにメリーアンは呻く。
その隣を、何者かがゆっくりと歩いて行った。
どうにかメリーアンが体を起こすと、一人の男がクラリッサの元に近づくのが見えた。
雨に濡れたダークオレンジの髪。長身を包む黒いコートが翻る。
クラリッサが口元を覆い、彼を呼んだ。
「あんちゃん……」
ヨハネスはクラリッサの前に立った。
雨と涙に濡れた、擦り傷だらけの妹の顔。ヨハネスはそれをそっと両手で包み込んだ。
「…………怪我をしている」
メリーアンからはヨハネスの表情は見えない。
ただその声を聞いた瞬間、メリーアンの背筋にぞわりと震えが走った。
「………………痕になったらどうするんだ。女の子なのに」
ヨハネスの声音はいつもよりもずっと優しい。
なのに、どうしようもなく不吉な気分になる。彼が話すたび、その場の空気がどんどん濁っていっているように思えた。
「お前は僕と違って、治癒の呪文を使えないんだから」
ヨハネスの手が柔らかな青い光に包まれた。
その掌でそっとクラリッサの顔を撫でると、傷は溶けるように消えていった。同時に、クラリッサの体の周囲で爆ぜていた火花も落ち着いていく。
その背後で、アロイスがよろよろと立ち上がった。
「ひっ、ははっ、魔女、魔女がもう一人……!」
ぼろぼろの白い衣を振り乱し、アロイスは狂乱の笑みをヨハネスの背中に向ける。
このままでは危ない。メリーアンは地面に落ちた大鋏に手を伸ばした。
しかし、アロイスが黄金の剣を掴む方が早かった。
「ふっ、ひっ、神よ、感謝を……この奉仕の機会に――!」
「ヨハン様――!」
メリーアンは叫んだ。
ヨハネスは振り返りもしなかった。その右手が弾かれたように後方に伸び、襲いかかってくるアロイスをただまっすぐに指さす。
「――
空中に無数の魔法陣が開き、そこから無数の鎖が現われた。
鎖は空中を泳ぐ蛇の如くアロイスへと伸びる。
しかしアロイスは引きつった笑い声をあげ、黄金の剣を薙ぎ払った。金色に輝く刃が雨と風とを巻き上げ、小さな旋風を生じさせた。
渦巻く風は鎖を吹き飛ばし、そのままヨハネスを呑み込むかに思えた。
「
過去にルシアンも用いた守護術式。それをヨハネスは無詠唱で行使した。空中に銀の波紋が無数に広がり、旋風を完全に打ち消す。
そこで初めて、ヨハネスはゆらりと振り返った。
「――こんな言葉を知っているか」
その瞬間、メリーアンは反射的に目をそらした。
霧の向こうに見える顔は青白く、奇妙なほどに表情がなかった。
エメラルドグリーンの瞳は暗く、泥沼の如く淀みきっている。様々な感情がどろどろに煮詰まり、ヨハネスの眼窩にわだかまっているように見えた。
怯んだのはアロイスも同じだった。
黄金の剣を振るおうとしていた手が止まり、その足がごくわずかに後ろに下がる。
「――魔女の一言、戦士の百撃に値す」
それは魔女の強さと恐ろしさとを示す、古い諺の一つ。
アロイスの隙を逃さず、ヨハネスの手がコートのポケットへと伸びた。
取り出したのは、銀で作られた三つの小瓶。それらを指の間に挟んで持ち、ヨハネスはその口を硬直したアロイスへと向ける。
「
小瓶の蓋が勝手に外れ、中から青白い光がぼうっと零れた。
直後、三つの小瓶から凄まじい速度で長細い魔物が飛びだす。銀色に輝く甲殻をまとったそれは高速で宙を飛び、矢の如くアロイスの腹部を貫通した。
「アッ、ごほっ……!」
口から黒ずんだ血を零し、崩れ落ちるようにアロイスは地面に膝をついた。
この間、五秒にも満たなかった。
風を切る音ともに、魔物は現われた時と同じように高速で瓶の中に戻る。
瓶を片付けたヨハネスが、地面に膝をついたアロイスを指さす。
「――
その囁きと共に、空中にやや大きな魔法陣が開く。
そこから現われたのは、木と鉄とで作られた無骨な車輪だった。ジャラジャラと音を立てて車輪から鎖が伸び、アロイスの四肢に絡みつく。
「あ、ぐ……!」
手足を大きく広げた形で、アロイスは車輪に磔にされた。
鎖に喉を締め上げられ、苦しげに喘ぐ。
「――週末は、どれだけ忙しくても妹と一緒にグーラシュを食べるって決めているんだ」
ヨハネスは穏やかな声で言いながら歩く。
そして途中で身を屈めると、彼は地面に手を伸ばした。
そこには先ほど、メリーアン達の戦いで生じた無数の岩塊や硝子片が散らばっていた。
「くっ……屈するわけには……私は愛されている、愛さなければ……ッ!」
アロイスは目を剥き、鎖を振り解こうともがく。
折れた骨が軋み、三体の鉄騎蟲に穿たれた穴からは臓物が除く。しかし彼女は構わず、譫言を繰り返しながら拘束に抗っていた。
「私が正しい……! 正しさを示さなければ――私の愛は正しいのだと――!」
「これは父や母が、まだ生きていた頃からのしきたりだ。今日もそのつもりだった。なのに――なぁ、僕の気持ちがわかるか」
いつになくヨハネスは饒舌だった。
地面に散らばる岩塊を持ち上げては、放る。硝子片に触れては、捨てる。
やがてヨハネスの手は、歪んだ鉄棒を掴んだ。
「家に帰ったら妹もいなくて。グーラシュなんて当然無くて。妹の言葉を思い出して少し心配になって妹の仕事先に行ってみたら妹も友達も傷だらけで妹は泣いていて」
メリーアンは思わず、下がった。
自分が今、何を恐ろしいと思っているのかわからない。鎖で捕縛されつつも今だもがき続けるアロイスなのか、それとも――。
「そしてあの金環教の祭司が――何もかもを壊した金環教の祭司が――母を殺し父を謗り妹を殴り――金環教の祭司が妹のそばにいて妹の近くにいて妹を傷つけて――嗚呼」
鉄棒がぶんと唸りを上げ、振るわれた。
何度か感触を確かめるように素振りをしてから、ヨハネスは鉄棒を手に歩き出す。
その先には、拘束されたアロイスの姿がある。
「嗚呼……憎らしい……」
ヨハネスの言葉はどこまでも淡々としていた。
淡泊に、まるで機械の如く呪詛の言葉を繰り返しながらヨハネスは鉄棒を振り上げる。
鈍い音を立て、血の雫が雨ともに飛び散った。
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