12.テンペストの残響

 なにも見えずに乱気流の中で揉まれているような感覚だった。

 光一つない闇の中、大量のマナが四方八方から襲いかかってくる。

 幾千もの声が聞こえた。意味のわからないあらゆる囁き、呻き、叫び声が混ざり合って頭の中にねじ込まれ、メリーアンの意思を掻き消そうとしている。

 聞こえる悲鳴が他者のものなのか、あるいは自分のものなのかもわからない。

「黙って、黙って! 入ってこないで!」

 頭を抱え、メリーアンは体の奥底から叫ぶ。

 しかし見えない意思達はその間も、大量の情報をメリーアンへと流し込んで来た。

 構成霊素エクトプラズムが揺らぎ、薄れていくのを感じた。自分という存在を囲う境界線が溶け、ゲファンゲネへと消化されようとしている。

 ――不意に、怒りがこみ上げてきた。

 冷たい岩底から噴き上がる溶岩のように――あるいは曇天に立ち上った竜巻のように、突如として強烈な憤怒が少女を支配する。

「は、あ――」

 掠れた声に、周囲で無数の人間がたじろいだような気がした。しかしそれらはさらなる力を持って、自分を押し潰そうと声を高めてくる。

 自分を消そうとしている――それを理解した瞬間、胸に燻る火が全身に広がった。

「黙、れ――ッ!」

 赫怒の叫びとともに大気が揺れた。

 強烈な念力が暴風と稲妻を巻き起こす。突如闇の中に生み出された嵐はマナの奔流を歪め、掻き消していく。あまたの声が雷鳴と風に消され、吹き飛ばされる。

 どこからかいびつな悲鳴が聞こえた。

 やがて風が静まるのと同時に、強烈な怒りも消えていった。

 ――そうして、メリーアンは我に返った。

「あっ……ここ、は……」

 辺りはすっかり静まりかえっていた。

 力と意思の濁流は絶え、時折奇妙な声がどこからか聞こえるのみとなっていた。

 どうやら突発的な怒りにまかせた結果、マナの流れを一時的に止める事ができたらしい。

 幽霊にとってマナの流れは血流そのものだ。

「マナの流れを止めたから、ゲファンゲネは相当の打撃を喰らったはず。じゃあこの変な声は呻き声かしら――か、火事場の馬鹿力ってすごいわね……」

 よくわからないなりにそう分析した後、メリーアンは深々とため息を吐いた。

「うー……でも、外には出れていない。――ん?」

 視界の端で何かが光った気がして、メリーアンは反射的にその方向に顔を向ける。

 闇の彼方で、何かが赤く煌めいていた。

「あれは……?」

 メリーアンは赤い光へと飛行を開始した。

 近づくにつれ、光の正体は徐々にはっきりしてきた。

 それは赤い輪だった。犬の首輪ほどの大きさで、ぼうっとした光を放っている。

 その光を見ていると、頭がくらくらしてきた。

「これ、何……? なんだか、あまり良いものではないみたいだけど――」

 首をひねりながら、メリーアンは赤い輪に触れようとする。

 その時、背後で幽かな声が聞こえた。メリーアンは目を見開き、背後を振り返る。

「え、貴方は――?」

 その時、ぐらりと空間全体が大きく揺れる。

 さらに地鳴りのような重低音が響き、メリーアンは身をすくめる。しかし間髪入れず、強烈なマナの波がメリーアンを襲った。

「きゃあっ――!」

 メリーアンは抗うことも出来ず押し流され――地上へと放り出された。


「――大丈夫なのか? 地面にぶつかった瞬間にこんな姿になっちまったぞ」

「問題ない。よくあることだ。――おい、起きろメリーアン」

「う、旦那様……?」

 いつも通り無愛想なルシアンの声に、メリーアンはすぐに意識を取り戻した。

 心配そうなディートリヒの声が聞こえた。

「おい、嬢ちゃん。その……大丈夫か?」

「ディートリヒ様も……あ、あれ?」

 そこでメリーアンは異変に気づいた。

 どうにも視界がはっきりしない。音はどこか遠くから聞こえるように感じられ、手足の感覚はいつにもまして曖昧だ。

「あれ……だ、旦那様、どちらに……?」

「お前の目の前だ。とりあえず早く人型に戻れ、やりづらい」

「え、私、まさか原型に……? な、なんてこと――!」

 幽霊は記憶や意思によって、不定形な構成霊素エクトプラズムの形を変える。さながら器に注がれる事で形が変化する水のような存在だ。

 しかし混乱したり大きな損傷を受けたりすると、霧や煙のような存在になってしまう。

 今現在のメリーアンがまさにその状態だった。

「ゲファンゲネの中で揉まれたせいだわ――ええと、手、足、首、胴体――!」

 メリーアンは必死で意識を集中する。記憶のない彼女は、意思の力だけで人型に戻らなければならないので一苦労だ。

 白い霧と化していた構成霊素エクトプラズムが渦を巻き、収束する。

「死んでいるけれど復活!」

 厚いブーツのかかとで床を踏み、メリーアンはあたりを見回す。

 そこはどうやら、先ほどルシアンとともにいた場所からいくらか離れた場所のようだ。暗い家並みは静まりかえり、散らかった通りにはもう誰もいない。

「皆さん、もう避難したようですね……」

「ああ。もうここには戦える奴以外は残ってねぇ」

 見上げれば、相変わらずゲファンゲネは上空にいた。

 しかしどういうわけか、がっくりとうなだれた状態で静止している。さらにその体のあちこちに亀裂が走り、白い煙のようなものが噴き出していた。

「あの煙は一体……?」

「漏れ出した構成霊素エクトプラズムだ」

 ゲファンゲネを凝視しながらルシアンは答える。

 集合霊を睨むその双眸は異様な変化を遂げていた。白目全体が黒く染まり、そこに紅玉の虹彩が浮かんでいる。

 忌法『冒涜の瞳』――対象を解析する魔法を宿した瞳を細め、ルシアンは舌打ちした。

「――ちっ、よく見えんな。この姿では、この距離が《冒涜の瞳》の限界か」

「何故そんなものが漏れて――もしや、旦那様方のご活躍で?」

「違う。お前を取り込んだ結果だ」

 ルシアンは首を振りながら両目を一旦閉じ、開いた。

 その一瞬で魔法を解除したのか、メリーアンを見るその眼からは赤色は消えている。

「《冒涜の瞳》でわかった。あれは破裂寸前の風船だ。ただでさえ容量が逼迫しているところにお前を取り込んだせいでついに破綻したのだ」

「私一人を取り込んだせいで……?」

「お前はとろくてうかつで素っ頓狂なわりにマナの貯蔵量が莫大だからな」

「と、とろくてうかつで素っ頓狂……」

 あまりの悪口にメリーアンはがっくりと肩を落した。

「――このチャンスを逃すわけにはいかねぇ。とっとと奴をブッ殺すぞ」

 ディートリヒがサーベルを抜き払い、滞空しているゲファンゲネを睨みあげた。

 ルシアンが呆れたように唇を歪める。

「だからもっと調べるべきだとさっきも言っただろう。距離のせいで解析も中途半端だ」

「でもあれを殺したら爆発するとか毒ガス噴き出すとか、そういうのはねぇんだろ? せいぜいあれを構成してる幽霊どもが消えるだけで」

「えっ――」

 その言葉に、メリーアンは紫の瞳を揺らした。

 一方ディートリヒはそれに構わず、ルシアンにサーベルの切っ先を突きつける。

「臆病者は下がってろよ。俺が始末をつける」

「貴様……まぁいい。考えてみれば、あれで貴様が何か不利益を被るなら我輩にはむしろ喜ばしいことだ。よし、とっととあの集合霊を片付けるか」

 煽るように切っ先を揺らすディートリヒに眉を寄せつつ、ルシアンが腕組みを解いた。

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