10.火の魔女

「し、心臓が止まるかと思ったわ……」

「もう止まってるでしょ。怪我がなくて良かったよ。あたしは治療の呪文を使えないから」

 クラリッサはぐっと掌を握りしめる。

 するとその手に纏わり付いていた炎は一気に収束し、掌の中へと消えた。

 炎の消えた手を広げ、クラリッサは物憂げにため息をつく。

「困った体質だよ……あたしは焼き尽くす事しかできないんだもの」

『ザハリアーシュ嬢は火の蛮神に愛されている』

 かつて、メリーアンはルシアンにそう教えられた。

 それはクラリッサと知り合って間もない――確か初夏の頃の事だったと思う。

『彼女が炎のマナを自由自在に操ることが出来るのはその恩恵だ。炎の魔術において、魔女街で彼女の右に出る者は存在しない』

『す、すごい……魔女街で一番って事は、世界でも一番って事でしょう?』

 煙草に火を点けつつ語るルシアンの言葉に、メリーアンは純粋に感嘆した。

 しかし、ルシアンの反応は複雑だった。紫煙を燻らせながら、彼はどこか物憂げな表情でライターに灯した小さな火を見つめていた。

『だが、良い事ばかりでもない――あれは相当厄介な体質だぞ』

「とりあえず、もう少しこの辺りの魔物を駆除したら今日はおしまい。良かったら、この後うちにおいでよ。あんちゃんとご飯の約束をしてるから――っしゅん!」

 口を押さえ、クラリッサは小さくくしゃみをする。

 途端、その指の隙間からちろちろと赤い炎が零れた。さらにまるで花火のように、クラリッサの周囲でカラフルな火花がバチバチと飛び散る。

「だ、大丈夫? かなり盛大に爆ぜたけど」

「平気だよ……空気が乾燥してるとね、どうしてもこうなっちゃうの。困っちゃうよ。ほんと、あたしは焼く事しかできないんだから」

 ストールを体に巻き付け、クラリッサは深くため息をつく。

 蛮神の加護があまりにも強力すぎるせいで、クラリッサは事あるごとに爆発や火災を引き起こす。体中に着けた護符がなければ日常生活もままならないらしい。

 クラリッサが動くたびに煌めく護符を見て、メリーアンはふと思い出した。

「……そういえば貴女の護符、ヨハン様が作ってらっしゃるのよね?」

「そうだよ。あんちゃんは器用だから、なんでもできちゃうんだよ。あんなにでっかいのに、どんなに細かい作業も簡単にこなしちゃう」

 クラリッサはまるで自分の事のように誇らしげに胸を張った。

 しかし、すぐにその表情が暗くなる。

「……それに比べてあたしは魔女のくせに空も飛べないし、火の魔術しか使えないし……」

「そんな風に自分を卑下しないで、クラリッサ」

 がっくりと肩を落とす友人に、メリーアンは優しく声をかけた。

「貴女は薬の調合が上手だし、占いの読み取りも得意だわ。そして、誰とでも友達になれるじゃない。私はそんなクラリッサがすごいと思うわ」

「そ、そうかなぁ? だったら嬉しいけど」

 クラリッサははにかんだように頬を赤らめ、ストールを口元まで引きあげた。

 しかし、そのエメラルドグリーンの瞳が再び翳った。

「……でもね。あたしはあんちゃんの足を引っ張っているの。あんちゃんは、あたしのせいで自由がなくなっちゃった」

 その言葉には、どうにもできない悔恨の色が滲み出ていた。

 会話を切り替えた方が良い。そう判断したメリーアンは裏路地の出口に向かって歩き出しつつ、さらりと話題を変えた。

「――それにしても、ここは一体なんなの? なんだかぼろぼろの建物ばかりね」

「あー……その分だと、覚えてないんだね」

 クラリッサの微妙な反応に、メリーアンはきょとんとして首をかしげた。

 裏路地から出ると、辺りには月光が降り注いでいた。

 冷たい秋の夜風が瓦礫の狭間を吹き抜ける。ラノワール棄領の廃墟街で聞こえるものとはまた違った、寂しく空虚な音がした。

「昔はこの辺り、繁華街だったんだよ。でも、その……テンペストが……」

「……ああ、なるほど」

 その言葉で、メリーアンは大方の内容を察した。

 ここはかつて『テンペスト』と呼ばれていたメリーアンが破壊した場所の一つなのだ。

 辺りを見回しても、なにも思い出せない。

 間違いなく、昔のメリーアンはテンペストと呼ばれた大悪霊だったという。

 しかしかつての自分の痕跡を前にしてなお、その実感は湧かない。

「……わからない事だらけだわ」

 生きていた頃の記憶もなく、死んだ後の記憶も曖昧だ。

 さらに唯一の拠り所としていたルシアンさえ、実際は一体何者かわからない。

「私に一体……なにがあるのかしら」

 急に足下がふらつくような感覚を覚え、メリーアンは頭を押さえた。

「大丈夫? メリーアン」

 慌てた様子でクラリッサが駆け寄ってくる。

「え、えぇ……平気よ。ごめんなさいね、なんだか、さっきから辛気くさくなっちゃって」

「そんなの気にしなくて良いんだよ」

 クラリッサはそっとメリーアンの肩に触れた。

 幽霊の『肌』にはその手の感触を感じ取ることは出来ない。しかし蛮神による加護のせいか、クラリッサの体温だけは伝わってきた。

「何か辛い事があったらなんでもいってね。あたし、あんちゃんと違って燃やす事くらいしか出来ないけど――でも、話くらいは聞いてあげられるから」

 硝子細工に触れるような手つきで、クラリッサは優しくメリーアンの肩を撫でた。

 メリーアンを映すその瞳は、ヨハネスと同じ色をしている。しかし淡々としていた兄とは違って、彼女のまなざしには温かみが滲み出ていた。

「クラリッサ……ありがとう」

 メリーアンはそっとクラリッサの手に触れて、心からの感謝を口にする。

 周囲が暗くなっていく。月明かりを、厚い雲が覆いつつあった。

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