2.旦那様の左腕

 その時、メリーアンは嫌な視線を感じた。

「……あたし達を見てる」

 隣でクラリッサが呟き、メリーアンの肩にしがみついた。

 割れた人形の顔――闇の向こうで、大量に虹彩のついた目がメリーアン達を見ている。

 グッグッと醜い笑い声を漏らし、アロブ=マブは手を動かした。

 かたかたと球体関節が音を鳴らしながら巨大な手が伸びてくる。メリーアンは震えつつもクラリッサを背後に庇い、オールワーカーを構えた。

「――忌法《死穢オーミナス・エンブリオ》」

| 押し殺したルシアンの声が魔法の発動を告げる。

 直後、メリーアンたちの前に黒い影が降り立った。黒豹に似た魔物が目を赤々と燃やして躍りかかり、アロブ=マブの手に深々と牙を突き立てる。

【やめろよお ひどいよお ずるいよお】

 蛮神は喚きながら魔物を振り払い、裂け目に手を引っ込めた。

 魔物は地面にひらりと着地し、メリーアンとクラリッサを守るように立った。

「この、魔物は……」

「……ちっ。久々に使ったせいか手順が雑になった」

 左手を軽く振りつつ、ルシアンが毒づく。その指先から、新たに赤い血が滴っていた。

 死穢の徒――メリーアンは、その魔法を話には聞いていた。

 それは外法中の外法。

 自身の骨肉を触媒に、眷属の魔物を造り出す魔法だ。この魔法により作られた眷属は通常よりも遥かに従順で、命令されずとも主人の意に沿って動くらしい。

 あ、とメリーアンは気づく。

 自分よりよほど優秀ではないか、この眷属は。

「――絶対こっちに来るなよ、リッサ!」

 クラリッサへと向けられたヨハネスの声に、メリーアンははっと我に返った。

 ヨハネスが肩越しに振り向き、怒鳴った。

「あの体を見ればわかるだろう? あいつは特に人間と魔女の子供を好む——捕まったが最後、あいつの一部にされるぞ……!」

「あとメリーアンも近づくな」

 冷え切ったルシアンの言葉に、動きかけていたメリーアンははっと目を見開く。

「で、ですが……!」

「これはお前にはどうしようもない。大人しくしていろ」

 メリーアンの言葉をルシアンはばっさりと叩き切った。

 一瞬さらに食い下がろうとメリーアンは口を開きかけたが、すぐに閉じた。

 一体、何ができる?

 四肢には鋭い痛みが断続的に走っている。そしてクラリッサに焼かれた右腕からはいまだ熱が消えない。全身の構成霊素が悲鳴を上げていた。

 そして――相手は蛮神。メリーアンにできる事は、何も無い。

 下手に動こうとすれば、さらに主人の足を引っ張るだけ。

「……どうしてこんなに役に立たないの」

 先ほどルシアンに庇われたことを思い出し、メリーアンは唇を噛んだ。

 胸に穴が空き、そこから風が吹き込んでくるような感覚だった。どうにもならない無力感を噛みしめつつ、メリーアンは主人の背中を見る。

 ――そして、違和感に気づいた。

「旦那様……どうして、片手だけで裂け目を押さえているのかしら。あの傷はもう、完全に治ったはずなのに……」

 ルシアンほどの術士ならば、両手で同時に呪術を行使する事などはたやすい。ヨハネスのように左右の手で封じ込めることも可能のはず。

 なのに、ルシアンは先ほどから右手だけで裂け目を抑えている。

 左手で魔術を使えないはずがない。

 先ほどルシアン自身が『問題ない』と言った通り、左手の傷は彼自身が完全に治したはずだ。現にたった今、左手で《死穢の徒》を行使した。

「いや……本当に、そうなの?」

「……メリーアン? どうしたの、大丈夫?」

 クラリッサの言葉もろくに聞こえていなかった。

 メリーアンの目は、ルシアンの左手に釘付けになっていた。だらりと下がったまま動かないそれに――嫌な憶測が急速に展開していく。

「旦那様……まさか……」

 そしてメリーアンは、気づいてしまった。

 主人のシャツの袖からわずかに覗く――アロイスの呪詛による赤黒い傷が、ルシアンの左手首にまで広がっていることに。

「悪化してる……!」

 見ている間にも傷はじわじわと伸び、ルシアンの腕にまで及びつつあった。

 青ざめた顔でメリーアンは口元を覆う。

 恐らく、アロイスに受けた傷は完治していなかったのだろう。

 そんな状態の左手でルシアンは裂け目から打ち寄せてきた瘴気と衝撃を打ち払い、さらに苦痛を伴う魔法を行使した。

 元々治っていなかった傷が、それらでさらに悪化してしまったのだ。

「な、なんとかしないと――っ! このままじゃ、旦那様方が……!」

「駄目だよ……あたし達じゃ、手出しできない」

 動こうとするメリーアンをクラリッサが力なく制した。

 体の周囲で弾ける火花を忌々しげに払いつつ、彼女は深くため息を吐く。

「あたしは護符が一つ壊れてしまったから魔術を使えない……そもそもあたしには、火の魔術以外は使えない。メリーアンは――」

「私は平気よ! 全然問題ないわ!」

 メリーアンは大きく首を横に振る。

 そんな彼女を、クラリッサは物憂げなまなざしで見つめた。エメラルドグリーンの瞳に影が差すと、ますます兄によく似て見えた。

「……でもどっちみち、今のあたし達に出来る事なんてなにもないよ。誰か、助けを呼んだ方が――いや……待って……」

 クラリッサはやや目を見開き、口元を押さえた。

 その手が自然と持ち上がり、髪の毛をいじり出す。やがてクラリッサは迷うようなそぶりを見せながら、再び口を開いた。

「アロブ=マブの気を引けば……どうにかなるかも」

「気を、引く? でも、どうすれば」

 メリーアンがたずねると、クラリッサは眉間に皺を寄せて考え込んだ。

「あいつは確か、蛮神の中でも特に子供っぽい性質で……とにかく、光るものが好きなんだって。なにか、光るもので境界から気を逸らすことができるかも――!」

「光るもの……でも、そんなものどこにも……」

 そこでメリーアンは口を閉じ、自分の手を見つめた。

 オールワーカー。ドワーフが鍛え上げた変形双刀。そのミスリルの刃は、雲の向こうから差し込む月光に冷え冷えと煌めいていた。

 メリーアンは一瞬、迷った。

 赤黒い瘴気を吐きながら広がる裂け目。蛆の如く蠢くアロブ=マブの腕。それを鎖で繋ぎ止めようとするヨハネス――。

 そして、ルシアンの背中。それらを目に映し、メリーアンは呼吸を整えた。

「私が、やるわ」

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