Ⅰ.旦那様は夕闇に笑う

1.悪徳の街

 大陸歴二四四八年 九月

「……それ、実話?」

「もちろん。私と旦那様が雇用契約を結んだ日の話よ」

 レジ台の向こうで呆気にとられている少女に、メリーアンはうなずいた。

 その身にまとっているのはぼろではなく、丈の長い黒のワンピースにフリルの着いたエプロンだ。頭には白いメイドキャップをつけている。

 そこは小さな雑貨店だった。

 甘いにおいが漂う店内には、様々な日用品や魔術の道具が山と積み上げられている。そしてどういうわけか、壁には防火の護符が一面に貼られていた。

 メリーアンはその店内を見て回りつつ、友人である店主と雑談をしている。

「大体、半年前の話かしら。わりと最近のことね」

 メリーアンは陳列棚に手を伸ばし、ジャム瓶をとった。前に比べればはっきりとしているが、その手はよく見るとうっすら透き通っている。

 あの最低な出会いから半年。

 幽霊としてそれなりに力もつき、メイド装束もそこそこ板についてきた。

「……え、脱いだの?」

 レジ台の少女は恐る恐るといった様子でたずねてきた。

 メリーアンはジャム瓶をいくつかカゴの中に入れながら首を振る。

「脱がないわよ。だって私は今だってしっかり実体化できないのよ? 最近はうっすら出来るようになったけど、今も物に触るのは一苦労」

 力のある幽霊は実体化し、生身の人間とほぼ同じような行動ができるという。

 しかし現在のメリーアンにはそこまでの技量はない。

「今の私はね、構成霊素エクトプラズムの上に薄い『肌』を作っているような状態なのよ。中に空気の詰まった風船みたいな状態。だから衝撃とか重量には弱いの」

「でも普通によく重い物とかを持ち上げてない?」

「これね、念力。ようするに、すごく小さなポルターガイストなの」

 メリーアンは手近にあったウィスキーの大瓶に手を伸ばした。

 本来メリーアンの『肌』には、この重量に耐えられるだけの強さはない。しかし思念の力で大瓶をやや浮かせ、さらに『肌』を強化すれば――。

 メリーアンは軽々と大瓶を持ち上げ、自慢げにクラリッサを見た。

「ほら! この繊細な力加減を習得するのにものすごく頑張ったのよ!」

「へー、そうなんだ。――ちなみに、ほんとにルシアンとはなんもないの?」

「ありませんってば。私達はあくまで清く正しいメイドと旦那様の関係よ。――とりあえず今日はこれくらいいただきましょうか」

 いくつかの商品を入れた買い物籠をメリーアンはレジへと持っていった。

「はい、毎度あり」

 精算を始めたのは、見た目は十六、七歳くらいの少女だった。

 かなり派手な容姿をしている。長い髪は燃えるようなオレンジ色。瞳は鮮やかなエメラルドグリーンで、よくよく見ると同心円状の模様が入っている。

 黒いワンピースに、首にはオレンジ色のストール。そして体中にビーズやメダルなどで出来た様々な護符をじゃらじゃらと飾り付けた奇妙な格好だ。

 彼女の名はクラリッサ・ザハリアーシュ。メリーアンの友人であり、魔女の少女だ。

「お守り、また増やしたの?」

「うーん? ああ、最近ね。あんちゃんがまた仕入れてくれたの。――これとか」

 クラリッサが耳元につけていたピアスを外す。

 炎のような模様が施されたそれは防火の護符だ。これに限らずクラリッサが身につけている護符は全て炎を封じ、鎮める効果を持つ。

「一つあげようか? 火事場に乗り込んでもほとんど無傷で済むくらい強い奴だよ」

「いえ、今のところ結構よ」

「そう。――そういえば今日、ルシアンはどうしてるの?」

「さぁ……多分女の人のところではないかしら」

「ねぇメリーアン、前も言ったけどやっぱり転職しようよ。あたし幽霊の相談にも乗ってくれる良い弁護士知ってるからさ」

 心配そうなクラリッサに対し、メリーアンは慌てて首を振る。

「だ、大丈夫よ! 旦那様は色々ひどいけど、それでも大丈夫です!」

「うーん……あんたがそう言うなら良いけど――はい、精算終わったよ」

 木製のレジがチーンと小さなベルの音を鳴らした。

 クラリッサに指示された金額を支払い、メリーアンは買い物籠を持ち上げた。

「ありがとうございます。では、私はこれで失礼するわね」

「ん、また遊びに来てね。あと最近色々物騒だから気をつけて」

「気をつけるもなにも」

 クラリッサの言葉に首をかしげつつ、メリーアンは扉を開ける。

 目の前に広がるのは、異端の街だった。

 煉瓦や花崗岩で作られた無数の摩天楼が狭い区画内に詰め込まれ、それらを毒々しいネオンサインが照らしている。

 銃声、悲鳴、呪詛の声――聞こえる音の全てが禍々しい。

 そんな混沌とした夜景を背に、メリーアンはクラリッサを振り返った。

「ここは魔女街。異端者と無法者の終着点よ? 元から物騒でしょう」

「いや、近頃は輪を掛けて危ないから」

 クラリッサはいかめしい顔で首を振り、軽く人差し指を振る。その拍子にぱちぱちと音を立てて、指先からカラフルな火花が飛び散った。

「っととと――ともかく、油断禁物だよ、メリーアン」

「うーん……わかったわ、気をつけます」

 いまいち把握できないまま、メリーアンはうなずいた。

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