メイド・オブ・シャドウ

伏見七尾

Prologue.幽霊メイドは回想する

はるのよるに

 きっと私はその日の事を永遠に忘れることはないでしょう。

 それまで私はまどろみの中にありました。かすかな意識は常闇に浮き沈みし、自分が何者かさえ見出すことができずにおりました。

 そんなあいまいな時間が一体いつから続いていたのか。それすらももはや覚えておりません。

 途方もない時の流れの中で自我はまるで川に弄ばれる小石のように磨耗し、形を無くしていったのだと思います。

 夢もなく、まどろみ続けて幾星霜。

 十年、百年、千年、万年……そうしてようやく、私は呼ばれました。

「――やっと話せそうな状態になったか。おい、そこのお前」

 その低く艶やかな声が――無愛想な言葉が、私の意識を闇より掬い上げてくださいました。

「そこのお前だ。我輩の前の幽霊。とりあえず人型に戻れ」

 ああ、私は人間だったのか。

 そして……理由はわからないけれど、死んでしまっていたのか。

 その事実を理解した時、暗闇に溶けていた私にいくつかの変化が現れました。

 失われていた五感がいくらか蘇ってきたのです。

 私はずいぶん久々に風の音を聞き、雨があがった後の大気の香りを嗅ぎました。

「――先ほどあれだけ暴れていたのになんだその体たらくは……。少しはっきりしてきたがまだ人間には程遠い。もっと頑張れ」

 その言葉に従い、私はなんとか手足らしき何かに力を込めようとしてみます。しかし、感覚はいまいちはっきりしないまま。

 これ以上はもう無理です。

 私は力を振り絞り、なんとか声を出そうと努力しました。

「ふむ……これが限界か。一体どれだけの間ここに浮遊していたのだ。どうするかな。――仕方がない。少し手順を変更した上で、省略するか」

 声の主は何か考えている様子でした。

 そうしてしばらく逡巡するような沈黙の後、重々しくこう言いました。

「我輩と契約しろ、幽霊」

 ケーヤクってなんでしょう? 聞いたことのない言葉ですね。

「しまったこれは相当な馬鹿を捕まえたかもしれん――まぁ良い。つまり我輩のメイドになれということだ。我輩の剣を預かり、我輩のために茶を淹れ、我輩のために菓子を用意し――ようするに、家事と護衛とその他雑用全般をやれ」

 ケーヤクってなんだか大変そうだなというのが私の印象でした。

 すると、渋っている私の様子をどうにかして察したのでしょう。声の主は幾分か声を和らげて、私にこうもちかけて来たのです。

「代わりに我輩はお前に名と、形と、感覚を与えよう」

 それは本当に、本当に魅力的な対価でした。

 ケーヤク――契約すれば私のまどろみが終わるということ。名前もわからず、形さえもなく、感じる事さえも出来ない時間から解放される。

 例えどれだけ大変でも、この宙ぶらりんの時間が終わるならば。

 私はこの方と契約したい。

「……よろしい。契約成立だな」

 私の意思はこの方に伝わったのでしょう。声の主は、どこか満足げに言いました。

 その時、私は強いにおいを感じました。

 雨上がりの空気よりもずっと強烈な――鉄が錆びたようなにおい。あまり好きなにおいではありません。なにか、嫌な記憶を刺激するような気がしました。

「冥王が告ぐ。ルシアン=マレオパールの血と剣と名前を以って、幽かなるものに楔を打つ――そうだな。お前の名は……仮にメリーアンとするか」

 凜としたその声が響いた瞬間――私のみぞおちだと思われる場所に鈍い衝撃が走りました。

 そうして私の暗闇は、終わりを告げました。


 夢から醒めた気分だった。

「まぁ……」

 たった今メリーアンと名付けられた幽霊の少女は呆然と呟き、辺りを見回した。

 そこは小さな――そして朽ちた聖堂のようだった。

 祭壇は徹底的に破壊され、もはや何を祀っていたのかさえわからない。半ば崩れた天井の向こうから、仄白く巨大な月が覗いている。

 床を見下ろすと、散らばった鏡の破片に青ざめた顔が映っていた。背中まで伸びた栗色の髪、瞳孔の開いた紫の瞳。うっすらと透き通った手足にはぼろぼろの服をまとっている。

「……そうよ、私だわ、これ。たしかに私」

 鏡に映る自分の頬に触れて、メリーアンは何度もうなずいた。

 その時、鼻先に甘く濃い薔薇の香りを感じた。そして、闇の中で聞いたあの声が響く。

「……ふむ、これは惜しい」

「あ……あなたは……」

 メリーアンは鏡から目を上げ、正面を見た。

 ちょうどそこは天井がぎりぎり残っている箇所。頭上から落ちる淡い影の中に溶け込むようにして、若い男が一人立っていた。

 艶やかな黒髪を長く伸ばし、うなじの辺りで一つにまとめている。肌は雪のように白く、顔は冷やかに美しい。全体的に引き締まったシャープな体つきをしていて、その身をブラックスーツと赤いシャツに包んでいる。

 男の姿を見た途端、メリーアンの胸にどっと歓喜の念が湧き上がった。

 この男が、自分と契約した相手。この人のおかげで自分は今、こうして自我を取り戻してここに存在している。

 実体を持っていないとは言え、存在を取り戻すというのはここまで嬉しいものなのか。

 うっすら涙を浮かべつつメリーアンは笑う。

「あなたが、私を救ってくださったのですね……!」

「見た目からして享年十六歳くらいか……惜しい。これは実に惜しい。顔がまぁまぁ良い分これは。いや、だがあるいは……」

 しかし、長髪の男には聞こえていない様子だった。

 筋張った手で口元を覆い、メリーアンのことを品定めするように見ていた。

 メリーアンはぎこちなく口を開く。

「あの……えと、旦那様?」

 この呼び方で良いのかはわからない。しかし気に入らなければ彼が修正するだろう。

 メリーアンがハラハラしながら男の様子をうかがった。

「とりあえず最初の命令をする、メリーアン」

 はっとメリーアンは佇まいを直す。

 この男は自分と契約した。自我を取り戻す代わり、彼に忠誠を誓うこととなったのだ。

 これはその始まり。『メイドのメリーアン』としての第一歩だ。

 一体、どんな命令を与えられるのか。

 固唾を呑んで待つメリーアンに対し、長髪の男は長い指先を無造作に振った。

「実体化しろ。そして脱げ」

 あ、この人わりと最低な人種だな――その事実を、メリーアンは勤務開始日に理解した。

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