10.空を征く囚人
二時まで残り十五分を切ったところで、ノックの音が響いた。
暇潰しに頭部を外して遊んでいたメリーアンは急いで首をくっつけ、玄関に向かう。
ドアを開けると、ディートリヒが何故か敬礼してきた。スカートの裾を摘まんで会釈しかけたメリーアンもとりあえず敬礼で返す。
「さっきぶりだな。なんか異常はあったか」
ディートリヒに続いて部屋に向かいつつ、メリーアンは短く答えた。
「旦那様が寝ました」
「叩き起こせ」
「ほら旦那様、もうすぐ二時ですよ。起きてくださいな」
「うっ……ぐぅ……」
「ほら体起こして。頑張りましょうよ」
奮闘により、なんとかルシアンを起き上がらせる事には成功した。
ベッドの上でルシアンはぐったり俯いている。眠る直前に髪を解いたせいで、その艶やかな髪がカーテンのように頭から膝に掛かっていた。
「寝起き悪すぎだろ。ガキかよ」
「……ディートリヒ、あまり喋らない方が良いぞ。今の我輩、恐らくなんでも殺せる」
「はっ、俺を殺すってか? やれるものなら――」
「あっ……」
『それ』に真っ先に反応したのはメリーアンだった。
全身の
「――あ? どうした、嬢ちゃん」
ディートリヒがきょとんとした顔でメリーアンを見る。
ルシアンが俯いたまま、メリーアンと同じ方向にゆるりと頭を動かした。
「……ああ。そうか」
「おい、なんだよ。だから主従だけで完結してるんじゃ、ね――」
ディートリヒの耳がぴくりと動いた。
彼は即座に腰のサーベルに手をかけ、メリーアンと同じ方向に視線を向ける。見えない危機を察した野生動物にも似た動きだった。
時計の長針が十二を示す。途端、明かりが不規則にまたたき始めた。
地鳴りのような重低音がかすかにどこからか響きだし、建物全体が小さく震えだす。
「これは大きいな」
のろのろと髪を括りながら、ルシアンがどこか他人事のように呟いた。
ディートリヒが部屋を横切り、通りに面した窓を開ける。
途端人々の悲鳴とともに、地鳴りがよりいっそうはっきりと聞こえるようになった。
「来やがった、
雲間を泳ぐように、巨大な霊が飛行している。
それは深海から打ち上がる魚の類いに似ていた。
半ば透き通った胴体には無数の発光体が点在し、それが七色に点滅している。全身に錆びた鎖が大量に巻き付き、これが名前の由来になったようだ。
顔面には人間の目や鼻や口が滅茶苦茶に付き、それらが時折苦しげにわなないている。
そして巨体の周辺を、淡く光る二つの鬼火がゆっくりと飛び回っていた。
「あの巨体に、混在する人間のパーツ――あれは集合霊だな」
窓の側に立ったルシアンが赤い瞳を細め、小さく呟いた。
「えぇ……たくさんの幽霊が、あの大きな霊を形成してる――っ、なんて声……!」
耳を押さえ、メリーアンは顔をしかめる。
先ほどから響く地鳴りのような音――それは幾百もの人間の苦悶の声だった。
数多の呻き声や苦しみの叫びが、あのゲファンゲネから放たれている。同じ幽霊であるメリーアンの耳には、それがはっきりと理解できた。
やがて見ているうちに、ゲファンゲネがぐんぐんと急降下を始めた。
「ああっ、クソッ――!」
ディートリヒの悪態を消し、大量の建物が壊れる轟音が響いた。
同時にさらなる苦悶の重低音が響き、メリーアンは両手で頭を押さえる。
身をよじるようにしてゲファンゲネの胴体が再び浮上する。その周囲の家々は跡形もなく押し潰され、火が付いている建物もあった。
「こうしちゃいられねぇ! あの腐ったクソマグロをブチのめすぞ!」
「ディートリヒ様!」
怒鳴りながらディートリヒが窓から外に飛び出した。
五階分の高さから軽々着地し、ディートリヒはゲファンゲネの旋回する方向へ走り出す。
ルシアンが舌打ちし、窓の桟に足を掛けた。
「駄犬が。考えもせずに――行くぞ、メリーアン」
メリーアンとルシアンはホテルから飛びだすと、ディートリヒを追う。
クライネバルトは恐慌状態になっていた。
至る所で獣の頭を持つ者達が傷つき、逃げている。親に抱かれて逃げる子供達は泣き叫び、大人の中にもパニックを起こし座り込む者がいた。
あまりにも痛々しい光景にメリーアンは思わず目を伏せた。
「この人達……境界から逃げてきた人達ですよね。やっと魔女街にまで逃げのびた人達なのに、こんな事になるなんて……」
「魔女街は楽園ではない」
前を走るルシアンが淡々とした口調で言った。
「こんな事は日常茶飯事だ。いちいち悲しんでいたらキリがない。――しかしあの霊、旋回するばかりで全く移動しないな。よほどこの場所が憎いと見える」
その時、小さな爆音が立て続けに響いた。
メリーアンははっと顔を上げる。地上からいくつもの火の玉や光線が打ち上がり、ゲファンゲネに向かって飛んでいく。
「旦那様、魔術師達が攻撃しています……!」
「獣人は人間よりも魔術の素養が低い。ほとんど目眩ましにしかなっていないだろう」
ルシアンの言葉通り、魔術師達の苛烈な攻撃は効いている様子はない。
倒れた街路樹を飛び越え、曲がり角を一つ曲がる。すると悠々と泳ぐゲファンゲネを追い、家々の屋根を飛ぶ者の姿が目に映った。
「ディートリヒ! 魔の森のディートリヒだ!」
「銀星旅団最後の生き残り! 今こそその剛勇を見せてくれ!」
「駄目に決まってる。今までずっと勝てなかったろ」
獣人達の間から歓声と諦めの声が同時に上がった。
ルシアンとメリーアンは足を止め、跳躍するディートリヒの姿を呆然と見上げた。
一際高い塔の屋根を蹴り、ディートリヒの体が空へと飛び出す。
眼下に泳ぐ巨霊を睨み、彼はサーベルを抜き払う。
「ォオオオオオオ――ッ!」
振り下ろしたサーベルがゲファンゲネの前ヒレに食い込んだ。ディートリヒはその体表に爪を立ててしがみつきつつ、なんとかその体に刃をねじ込もうとした。
ゲファンゲネの周囲に跳んでいた鬼火がちかちかと点滅を始めた。
それと同時に、ゲファンゲネの周囲で激しくマナが動き出すのをメリーアンは感じた。
「旦那様、衝撃波が来ます!」
「――《冥王が告ぐ。荒城啾々として石壁冷やかに。騎士は月輪に盾を掲げよ》」
ルシアンが歌うように呪文を呟いた。
不規則にまたたいていたゲファンゲネの発光体が一際大きく輝く。
「――《
詠唱を終え、ルシアンが指を鳴らす。その瞬間、まるで水面に波紋が広がるように空中に銀の円環が無数に現れた。
同時にゲファンゲネの鬼火が一際激しく輝き、巨大な衝撃波が地上に向けて放たれた。
障壁が地上を覆う直前、メリーアンは確かに見た。
衝撃をもろに喰らったディートリヒの肉体が潰れ、その手足が四散するのを。
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