9.メイドは旦那様に触れたい

 ベッドの上では、相変わらずルシアンがごろごろしていた。

「退屈でたまらんな……このままだと我輩は寝るぞ」

「あの、旦那様……」

「ム? なんだ?」

 ごろりとルシアンが転がり、逆さまの状態でメリーアンを見上げた。

 眠たげなその顔を、メリーアンはじっと見つめた。

 薄い唇、整った鼻梁、艶やかに煌めく紅玉の瞳――つくづく美しい顔立ちをしている。

「……でも中身は、ねぇ」

「なんだ? よくわからんが強烈にけなされた事だけはわかるぞ。良い度胸だな」

「やっ――!」

 腕を強引に引かれ、バランスを崩したメリーアンはベッドに倒れ込んだ。

 ルシアンの凶悪な笑みがぐっと近づき、彼の纏う重たい薔薇の香りをより強く感じた。

 同じベッドの中に引きずり込まれた形になるが、色気もなにもない。

「痛……いぃいいいい! 実体化が解け――あぁっ、首が! 外れやすいのに!」

「さぁ言え、何を考えていた? そして謝罪してもらおうか」

 大きな掌でぎりぎりとメリーアンの頭を締めつつ、ルシアンは猫撫で声で言った。

 メリーアンは悲鳴を上げ――ふと、思い出した。

「旦那様、失礼します――!」

「ム?」

 メリーアンは体を起こし、自分の頭を掴むルシアンの手に触れる。その動作に興味を惹かれたのか、ルシアンは締め上げをやめた。

「……あ。今はあの手袋、嵌めていらっしゃらないんですね」

「お前は今、実体化しているだろう。あれはそれなりに貴重なものだ。必要のない時にはあまり使いたくない」

 必要のない時によく嵌めていたような気がするが――今は良しとする。

 メリーアンは意識を集中し、指を滑らせた。

 筋張った手から手首に触れる。そうして腕を辿って、肩へ。次いで喉仏の浮き出た喉から指を落して、シャツの襟元から覗く鎖骨へ。

 最後に、存外に厚い胸板から引き締まった腹部の間で掌を往復させる。

「……なにも、感じない」

 指先には、空気を撫でているような幽かな感触しか伝わってこなかった。

【肌】を形成していても、曖昧な感覚はいつもとさして変わらない。まるで空気を撫でているような――そんなむなしさだけが胸に湧き上がる。

 触覚の鈍い幽霊の手では、知りたいことさえ知ることができない。

「……おい、なんだ。誘っているつもりか?」

 メリーアンは首を振ると、ルシアンを見下ろす。

 主人は珍しく戸惑ったように目を見開き、メリーアンを見つめていた。

「旦那様は……幽霊なのですか?」

「……は?」

「アッシャータ様が『冥王はかつて討たれた』と。そして、旦那様がその冥王なのでしょう? つまり旦那様は私と同じ幽霊なのかと」

 そうであって欲しいと心のどこかで思っていた。ルシアンが自分と同じものだったらと。

 でも、きっと違うという事もまた心のどこかで理解していた。

 そしてその理解の通りに、ルシアンはどこか呆れたように額に手を当てた。

「……死んでいるように見えるか?」

「いいえ。旦那様は生きていらっしゃる。……私と違って」

「…………まぁ、一時期死んでいた事はあるがな」

 ぼそりと紡がれた言葉に、俯いていたメリーアンは顔を上げる。

 するとルシアンは『失言だった』と言わんばかりに一瞬舌を突きだし、額に当てていた手を目元まで滑らせた。

「――それで、どうした? 何故急にそんな事を聞いた?」

 どうやら、あの言葉の意味を答えてくれるつもりはないらしい。

 メリーアンはスカートの裾をぎゅっと掴む。しかしすぐにその手を緩め、平静を装った。

「……色々と、不安なんです」

「不安だと?」

 目元を隠している手のせいで、ルシアンの表情ははっきりとはうかがえない。

 ただその声音は珍しく困惑しているように聞こえた。

「ええ……。私には記憶がありません。生前何をしていたのかも、何故死んでしまったのかもわからない。気づいたら、こんな幻のような存在で」

 メリーアンは顔の前に両手を広げる。

 中途半端とはいえ、現在メリーアンは実体化している。しかしその手を光に透かしてみると、自分がこの世のものではない事がわかってしまう。

「いつも不安なんです。自分が次の瞬間にも、この場所に存在できているかどうか」

 光に『肌』は透けて、まるで磨り硝子のように向こう側の風景が薄く映っている。

 その手を握りしめ、メリーアンは深くため息を吐いた。

「いつか何か大きな力にさらわれて……そうして、春の夜の夢のようにこの場所から消えてしまうんじゃないかって。だからこの不安を、分かち合えたらと――」

「また面倒なことを考えているな、お前は」

「おうっ」

 顎を掴まれ、メリーアンは悲鳴を上げた。

 指先をぐにぐにと彼女の頬にめり込ませつつ、ルシアンは苛立たしげにたずねた。

「大きな力と言ったな。この魔女街――いや、この地上に我輩より強い奴がいるか? どうだ、いるなら言ってみろ」

「わ、私はそんなに外に出た事が無いので比較対象が少な――」

「そこはいないと言え」

「うぅうううう! 穴が開いちゃいます……!」

 いっそうルシアンの指がぐりぐりと食い込み、メリーアンは必死で頭を振った。

 すると、ねじ込むような指の動きが止まった。

「お前もこの街の人間の大半も、つくづくしょうもない事を考えているな」

 体を起こし、ルシアンは不機嫌そうな顔で前髪をいじりだした。

「……と、いうと?」

「お前は先の事しか見ていないし、この街の人間の大半は過去の事しか見ていない。つくづくくだらん。考えてみろ。まだここにない将来を恐れてどうするのだ? もはやここにない思い出に縋り付いてどうする?」

 ルシアンは唇を歪ませると、髪をいじっていた手をメリーアンに向かって伸ばした。

 そして、その長い人差し指をその胸元に置く。

「怯える前に現状を見ろ。お前は今どうなっている? お前は今どうしたい?」

「それはその、えーっと……」

 自分の胸元に当てられた指先をちらちらと見つつ、メリーアンは考える。

 メリーアンは今、幽霊だ。どのような視点から見ても、その事実は変わらない。そして、いきなりどうしたいのかと問われると答えられない。

「少なくともお前の運はとうに尽きている」

 悩むメリーアンの耳に、冷淡なルシアンの宣告が届いた。

「えっ、尽きているんですか!? 私もうお終い!?」

「そうだ、我輩に捕まった時点でな。せいぜい絶望するがいい。楽園に行けると思うなよ」

 くつくつと喉の奥で笑いながら、ルシアンはごろりと仰向けに寝転がった。

「では我輩は二時までだらだらする。お前はその間もしっかり尽くすように」

「は、はぁ……」

「なんだ、不服そうな顔だな。よし、では気晴らしに愉快な話をしてやろう。むかしむかしある国の超絶美少年が東の野原で美女に出会って永遠に幸せに暮らしました」

「何一つ物語の起伏という物が存在していない……」

 呆れて額を押さえつつもメリーアンは微笑む。

 いつも通り、主人の言葉は横暴そのものだ。

 それでも何故か、胸にわだかまる不安が少し和らいだような気がした。

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