2.幽霊メイドは靴紐を結ぶ
メイドキャップのリボンをはためかせ、メリーアンは急いで館の二階へと向かう。
扉をノックすると、「入れ」と返答があった。
「失礼します。ただいま戻りました」
「遅い。我輩を待たせるな」
扉をすり抜けて中に入ると、ルシアンはちょうど着替え中だった。クローゼットの前に立ち、二つのシャツの見比べている。
こちらに背中を向けているものの、上半身は裸だ。
しかしメリーアンはさして気にせずに主人のそばへと進む。この半年間で、半裸の主人などすっかり見慣れてしまった。
「少し出かけていまして――ところで、いつお目覚めに?」
「さっきだ。一度起きて飯を食ってまた寝た」
「規則正しい生活をしましょうよ」
「我輩を支配するのは我輩だけだ。故になんら問題はない――よし、これでいい」
ルシアンはようやくシャツを決めたようだった。
シャツを広げ、袖を通す。その時、主人の体の前面がメリーアンにちらりと見えた。
厚い胸板、引き締まった腹筋――そして、傷痕。
「――っ」
いつ見ても、その傷痕の凄まじさにメリーアンはたじろいでしまう。
それは、いびつな蜘蛛の巣にも似た形をしていた。左の脇腹を中心にして、肩や腰にまで及んでいる。白い肌に赤い亀裂が走っているような凄まじい外観だ。
一体どうすればこんな傷を負うのか、メリーアンには想像もつかない。
何度かルシアンに傷痕の理由を聞いた事もあった。
『一体どうしてそんな傷を?』
『それはな、我輩があんまりにも美形過ぎたからだ。世の男どもに対して不平等だから、公平にするために神がつけたのだ』
毎回、このようなふざけた理由ではぐらかされた。だから最近ではメリーアンもほとんど傷痕の事をを話題にする事はない。
「今から出かける。だから靴紐を通せ」
ルシアンはソファに腰を下ろすと、ずっとメリーアンの前に足を出してくる。その足に履いている靴には、靴紐が通っていない。
「どちらにおでかけになるのです?」
「女友達のところに」
「はぁ、そうですか……いつ頃のお戻りになりますか?」
ルシアンが愛人と遊ぶのはいつものことで、それについてメリーアンは特に何も考えないようにしている。しかし帰宅の時間がわからないと家事に差し支える。
「お前の知ったことではない。そら、靴紐はここだ。通して結べ」
「はぁ……承知しました」
聞いたところで、どうせ答えは返ってこないだろうと思っていた。
メリーアンはそれ以上特に追求せずにうなずくと、ルシアンの側に近づいた。無造作に渡された靴紐を受け取り、床に膝をつく。
靴に手を伸ばすと、ルシアンがもう片方の踵をメリーアンの肩に載せてきた。
主人は時々、こういう奇妙な事をする。
貴族などには自分の靴紐も結べない者が多いらしいが、ルシアンは違う。手先はどちらかというと器用な方で、メリーアンがやる以上に複雑な結び方も可能なはずだ。
なのに何故か、主人は時々こうしてメリーアンを呼びつける。
ちらと見上げると、ルシアンは肘掛けに頬杖をついてメリーアンを見下ろしていた。
紅玉の瞳からその感情をうかがい知ることはできない。
メイドとしての立場をわからせるためにやっている。――ただ靴紐を結ばせるだけなら、そう考える事ができた。
「……っ」
しかしごくたまにこうして、主人はメリーアンの髪や肌に手を伸ばす。
それは『触れる』とも言い辛い。ごくかすかな接触。
感覚の鈍い幽霊の『肌』ではその感触はほとんどわからない。せいぜい視界の端に手が映り、初めて触れられたことに気づく程度だ。
この接触を、恐らくルシアンは無意識のうちにやっている。
どうやらこうしいう時の彼は相当ぼんやりしているようで、指摘されるとすぐ手を引っ込める。その後は恐ろしく機嫌が悪くなるので、メリーアンは普段あまり余計な口を挟まないようにしていた。
しかし、今日は違った。
「旦那様は……」
メリーアンが声を発すると、ルシアンは我に返ったようにわずかに身じろぎした。
「不安になることはないのですか」
キングダムでの一件から――あるいは恐らくその前から、ずっと胸にわだかまっていた問いかけをルシアンに向ける。
ルシアンは小さくあくびをしつつ、ぐうっと両手を伸ばした。
「……質問が曖昧すぎてよくわからん」
「自分の行動が間違いではないのか、と。自分の考え方や、そのあり方――自分の存在そのものに、不安を抱いたことはないのですか」
「ない」
即答だった。
「正しいか間違いかで言えば、我輩は恐らく最初から間違えている」
「え、最初から……?」
「世の中には生まれなかった方が良い奴がいると言うことだ」
暗い言葉とは裏腹に、ルシアンは「参った」といった様子でちょいと肩をすくめた。
一方のメリーアンは、思わず靴紐を結ぶ手を止める。
「それは、旦那様、その――」
「こら、手を止めるな。てきぱき結べ」
からかうようなルシアンの言葉とともに、肩に置かれた足にぐっと力が入った。
境界を見誤ったようだ。メリーアンは唇を噛みつつ、靴紐に手を伸ばす。
ルシアンは他者が自分の領域に関わってくる事を嫌う。ある一定の境界までは人の干渉を許すが、その先には恐らくほとんど誰も立ち入ったことはない。
事実、ルシアンは今まで一人として愛人を監獄館に連れてきたことがない。
彼とベッドを供にした女達であっても、その領域に足を踏み入れることを許されていないのだ。ましてやこんな木っ端な幽霊メイドに気を許すはずがない。
メリーアンは深くため息をつくと、右側の靴紐を結び終えた。
「旦那様、次は左足を――」
「潔くなれるぞ」
不意に放たれたルシアンの言葉に、メリーアンは顔を上げる
口元を軽く手で隠しつつ、ルシアンはふてぶてしく笑っていた。赤い瞳に自嘲の色などはなく、いつもどおり不遜にメリーアンを見下ろしている。
「ここまで間違い続けているとな。今さら細かい正誤など気にしても無意味だ。周囲がどうだろうと関係ない。自分のありたいと思うようにあるだけだ」
「尊大ですね」
衝動的に飛び出た感想に、メリーアンはしまったと自分の口を塞いだ。
しかしルシアンはさして気にする様子もなく、メリーアンの前にずいと左足を突き出す。
「尊大で何が悪い? 我輩の主人は我輩だけだ。我輩の好きに振る舞う」
「……旦那様は本当に、尊大ですね」
このとことんまで自己中心的な姿勢は確かにいっそ潔い。左側の靴紐を手に取りつつ、メリーアンはふっとため息をつく。
その時、どこか近くで電話のベルが鳴り出した。
「あ、電話――どこです!? 近くで鳴ってるのに姿が見えない!」
「やかましい。ばたばたするな」
ルシアンは渋々といった様子でソファの裏側に手を伸ばした。積み上がっていた本やおもちゃの山を退け、電話機を掘り出す。
「……思うのですが、何故毎回埋もれているのです」
「やかましい。――なんだ、誰……うわぁ、アルカ」
受話器を取ったルシアンはあからさまに顔を歪めた。
そのままいつになく嫌そうな様子で言葉を交わし、重い溜息とともに電話を切る。
「……予定変更だ。レッドスパイダーに行く」
「え、愛人さんのところには――」
「行けなくなった。……困ったことに今日はどうやらアルカの機嫌が良い。下手をすれば乗り込んでくるかもしれん。――支度をしろ、メリーアン。お前も出るぞ」
「え、私も……?」
うんざりした顔で前髪を掻き上げ、ルシアンは立ち上がった。
スーツのジャケットに袖を通し、ベッド脇の机に置いてあった自動車のキーを取る。それをくるくると指先で回しながらルシアンはメリーアンを見た。
「本当はお前を館に置いていきたい。……しかし、アルカはどういうわけか今回わざわざお前を名指しで呼んでいる」
「えっ、と……」
『本当は館においていきたい』という言葉にやや引っかかりを覚えた。しかし、いちいちそんな些細な文言を気にしていても仕方がないだろう。
感情を抑え、メリーアンはすました顔で軽く膝を曲げて会釈した。
「……かしこまりました。すぐに用意いたします」
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