4.主従揃って夜の街
「……今度は砂糖を忘れていないだろうな?」
ルシアンはぎろっと威圧するように睨み上げてきた。
空中にカップとポットを浮かべて紅茶を注ぎつつ、メリーアンはしっかりとうなずく。
「ちゃんと用意しましたよ、甘党さん! 前に忘れた時はひどい目に遭いましたもの。ところでその手紙は何ですか? 苦情?」
「何故まず苦情が出てくる。女性からの手紙だ。分量も内容も非常に重い」
ルシアンはその重い手紙を無造作にテーブルに置くと、ティーカップを受け取った。
主人がカップに口をつける様子を、メリーアンは固唾を呑んで見守る。
「どうですか?」
「……特に感想はない」
「そんな! 今回頑張りましたよ、私! 水道水に茶葉を直接いれてそのままお出しした時に比べればすごい進歩だと思いません?」
「できて当然のことができるようになっただけだろう」
「うう、そんなぁ……」
密かに打ちひしがれるメリーアンをよそに、ルシアンはカップを置いた。そしてズボンのポケットから黒い革手袋を取り出し、それを両手に嵌める。
「メリーアン、来い」
「どうしました? 旦那様」
「さっき撃たれただろう。見せてみろ」
指先を軽く振って呼んでくるルシアンに対し、メリーアンは慌てて首を振った。
「そんな恐れ多い……大丈夫ですよ! 放っておいたら勝手に直りますから!」
「良いから見せろ。放置しているとなんだか我輩がメイドを虐待しているみたいだろう。町内に悪い噂が流れたらどうする」
「え、いまさら何を仰って――痛い痛い痛い! ほっぺた抓らないで下さい!」
「我輩、優しいよな?」
「あああ首はダメです! 外れちゃう!――はい、とっても! とっても優しいです!」
「よろしい。――そら、わかったら跪け。優しい旦那様に傷を見せてみろ」
真っ赤になった頬を涙目でさすりつつ、メリーアンはルシアンの前に膝をついた。
ルシアンが手を伸ばしてくる。重たい薔薇の香りがふわりと鼻先に漂た。
ワンピースの襟元が緩められ、左肩が露わになった。文字通り透き通った白い肌には無惨にも穴が穿たれ、そこから蜘蛛の巣状に亀裂が走っている。
「いたっ――!」
ルシアンの手が傷に触れ、メリーアンは顔を歪めた。
革の食感がいつもよりもずっと鮮烈に肌に伝わってくる。ルシアンが嵌めている革手袋は特殊な代物らしく、これを使えば幽霊に触れることができるのだ。
「まったく、お前のそそっかしさは一体いつになったら直るのだ」
ルシアンは素早く手を動かし、短い呪文をいくつか発した。
その指先に青白い光が尾を引いた。それはまるでレース細工のように重なり合いつつ、メリーアンの傷口に広がっていく。
「うう、ごめんなさい……でも、もうこれ以上はきっとどうにもならないと思いますよ。私って、色々欠けてたり磨り減ってたりする幽霊なんでしょう?」
メリーアンは物憂げにため息をついた。
幽霊は死のショックにより、なにかしらの欠落を抱えているという。
さらにメリーアンはどうやら死んでいた期間が相当長いため、霊魂が摩耗した状態らしい。
その摩耗と欠落のせいか、メリーアンには生前の記憶がない。
どこでどのように生きていたのか、何故この若さで死んだのかもわからない。
だからいつも、不安で仕方がない。
「バラバラになったり、薄くなって消えたりしていない分……ずっとマシだと思いますよ。ちょっと馬鹿だけど、存在できているだけ――」
「またくだらん事を。本当に馬鹿だったらそこまで悩まないぞ」
どんどん小さくなっていくメリーアンの言葉を、呆れたようにルシアンが遮った。
「よく聞け、精神的に向上心の足りない者が馬鹿なのだ」
「わぁ、自堕落でふしだらな旦那様のものとはとても思えないくらい高尚なお言葉。さては誰か偉大な人のお言葉を借用しましたね?」
「鋭いな。ところで我輩、現在お前の生殺与奪権を握っているわけだが」
「今の発言はなかったことにしてくださいませ、偉大な旦那様」
「よかろう――《冥王が告ぐ。呼気、無音、硝子の箱。澪の鎖を以て泡沫の夢を繋ぐ》」
ルシアンが呪文を囁き、ぐっと拳を握った。
青白い光の網が収束し、メリーアンの左肩に溶け込んだ。かすかなぬくもりとともに、刻まれていた亀裂が消え去っていく。
「――《
「はい……」
その言葉を聞き、メリーアンはいつものように不完全な実体化をした。
何度か手を握り、ぐいぐいと左肩を回してみる。特に痛みもなく、動きもスムーズだ。
メリーアンはぱっと笑って、ルシアンを振り返った。
「ありがとうございます、旦那様! 完璧に直ってます!」
「当然だ。これに懲りたらもう油断するんじゃないぞ。次は放置する」
「はい、気をつけます! ……あれ、さっき虐待だと思われたくないから放置はしたくないとか言ってたような――」
メリーアンが首をかしげたところで、どこかで電話のベルがけたたましい声で鳴り出した。
ルシアンは面倒そうにソファの後ろに手を伸ばした。
が、すぐに慌てた様子で立ち上がった。
「しまった、電話機どこだ」
「この部屋やっぱり不便じゃないですか」
「やかましい。これはちょっとした――あ、あった」
本で埋まった書斎机からなんとか電話を発掘し、ルシアンは受話器を取った。
ルシアンはくるくると電話線を指先でいじりながら、電話の向こうの相手と二、三言言葉を交わす。やがて渋い表情で「わかった」と答え、受話器を置いた。
「急用が入った。少し出かけなければならん」
「え……またお出かけですか?」
メリーアンはテーブルから盆を持ち上げたところで動きを止める。
ソファの背に引っかけていた上着に袖を通しつつ、ルシアンはうなずいた。
「大した用事ではない。明け方までには帰る」
「明け方まで帰ってこないのですか……」
「……なんだ、その妙に歯切れの悪い返答は」
懐中時計の蓋をパチンと開け、ルシアンはじろっとメリーアンを見た。
メリーアンはゆるゆると首を振り、盆をぎゅっと抱き締める。
「いえ、特には……ただ、その、旦那様は最近お忙しそうで、お屋敷にいる時間が短いなぁって……それでちょっとその、なんというか……」
別に今に始まったことではない。
だが最近メイドとしての日常に慣れてきたせいか、どうにも気になるようになってきた。
抱え込んだ銀盆の縁を指先でなぞりつつ、メリーアンは目を伏せた。
「私は基本的にお屋敷から出ることがありませんし……旦那様がお留守の間はいつも心配なんですよ……。――っと、ごめんなさい!」
そもそもルシアンは急いで出かけなければならないのだ。自分のうじうじとした言葉で、ルシアンの時間をとってしまった。
その事に気づいたメリーアンは慌てて姿勢を正し、目を伏せて一礼する。
「お引き留めしてしまい申し訳ございません。どうかお気をつけて――」
「まったく……面倒だな」
「え? う、うわわ――!」
苛立ったような声とともにメリーアンの体が一気に浮いた。
見ればルシアンがあの手袋を嵌め、自分の襟首を引っ張っていた。実体化が不完全で、質量のほとんどないメリーアンの体はまるで風船のように浮いている。
「だ、旦那様! なんのおつもりですか!」
「我輩は急いでいるのだ。出かけたいなら出かけたいと言え」
「そ、それは――というか旦那様、お願いだから下ろしてください! この状態なんだかすごく怖いです! 自分で歩けます!」
しかしルシアンは聞く耳を持たず、メリーアンを引っ張ったまま車庫に出た。
自動車の助手席の扉を開け、無造作にメリーアンを放り込む。
「うぎゃっ」
「締められるならベルトを締めておけ。――いいか、これから行くところは少し危険だ。魔女街でも我輩並みに危険な連中の集まるところだ」
「だ、旦那様並みに極悪非道な方々が……」
「うむ、そうだ。とりあえずその身が惜しければ黙っていることだ。良いな?」
メリーアンは持ってきてしまった盆で口を隠し、こくこくとうなずいた。
運転席に乗り込んだルシアンがエンジンを掛ける。
スチームエンジンのけたたましい音とともに、漆黒の自動車が車庫から滑り出た。
メリーアンは無意識のうちに胸を押さえる。
心臓の鼓動は感じない。幽霊としての記憶しか持たないメリーアンは、心臓という器官がこの胸の内で動いていた時の感覚さえ覚えていない。
しかしその空っぽな胸の内には、今までにない緊張と不安感があった。
行き先は一体どこか。
そしてルシアン並みに危険で極悪非道な連中とはどんなものなのか。
身を固くするメリーアンの隣で、煙草を口に咥えたルシアンが「ム?」と首をかしげた。
「……我輩並み? いや、我輩以下だな。なにせ我輩があの中で一番強くて格好良くて女にモテる。他は背景みたいなものだ。もしくはその辺の小石」
これは意外と大丈夫かもしれない。――一瞬そんな考えが頭をよぎった。
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