5.バー『レッドスパイダー』にて

『第六区』と書かれた質素な標識のそばを通り過ぎたところで、自動車は止まった。

「……すごく静かですね」

 自動車の扉をすり抜け、メリーアンは外に出る。

 街並みは古いレンガ造りの建物で統一されている。近くには小さな公園があるが、魔女街の他の区域のようにごろつきがたむろっている様子もない。

「なんだか魔女街じゃないみたい……ここ、もしかして外界ですか?」

「まだ街の中だ。それどころか街の真ん中近くだぞ」

 自動車から降りたルシアンが答える。

 メリーアンは銀盆をぎゅっと抱き締め、信じられない思いであたりを見回した。

「でもすごく静かで……安全そうというか」

「わかっていないな。誰もここに近づこうとしないから静かなのだ。――行くぞ」

「は、はいっ」

 メリーアンは慌ててルシアンの後を追った。

 たどり着いたのは小さなバーだった。看板には『レッドスパイダー』とある。

 中は落ち着いた雰囲気に包まれていた。

 カウンター席と、小さなボックス席が二つ。奥の区画にはダーツ盤や小さなスロットマシンなどが置かれている。

 カウンターの向こうでは若いバーテンダーがグラスを拭いていた。

 肩に触れる程度の長さの灰色の髪。中性的な顔立ちで、青い瞳が柔和な印象だ。しなやかな体を、赤い蜘蛛のような模様を刺繍した黒いバーテン服に包んでいる。

 手を止めたバーテンダーはルシアンを見て、にこりと笑った。

「はぁい、男前。ご機嫌いかが?」

 涼やかなアルトの声をしていた。

「うむ。言われたとおり男前が来てやったぞ」

 ルシアンはおざなりに手をひらひらさせ、カウンター席に着いた。

「はい嬉しい嬉しい。――あれ、お連れさん?」

「ひっ……」

 バーテンダーに視線を向けられ、メリーアンはとっさに銀盆で顔を覆う。

「……なんで防御してるんだい?」

「だ、旦那様が、これから行く場所は危険なところだと」

 びくびくしながらメリーアンが答える。

 するとバーテンダーは心外だと言わんばかりに首を振った。

「えー、そんなことはないよ。ひどいなぁ。――おれの名前はアルカ・ドイル。しがないバーテンダーだ。魔女街でおれほど安全な奴はいないぜ」

「フン、どの口が言う」

 カウンターに頬杖をついたルシアンが鼻で笑う。

 それを無視してアルカは腕を組み、物珍しそうにメリーアンを眺める。

「……しかし意外だなぁ、キミって幽霊も守備範囲内なのか」

「違うぞ。こいつはメイドのメリーアンだ。留守番させるつもりだったが、捨てられた子犬みたいな顔をしてたからやむなく連れてきた」

「そ、そんな顔してないですよ!」

「していたぞ。今にもキャンキャン吠えそうな顔をしていた」

「吠えませんよ!」

 メリーアンは必死にキャンキャンと否定した。

 一方のアルカは顎を撫でつつ、ますます興味深そうにメリーアンの姿を見た。

「……なるほど、この子が『テンペスト』か」

「あ……は、はい。半年前まではそう呼ばれていたみたいです。でも私にはまったく記憶がなくて……とても情けないというか、申し訳ないというか……」

 メリーアンは銀盆を抱き締め、身を縮こまらせた。

 テンペストとは、かつて悪霊だったメリーアンの呼び名だ。どうやらルシアンと契約する前、メリーアンは自我を失った崩壊霊として相当暴れまわっていたらしい。

 落ち込むメリーアンに対し、アルカは笑いながらうなずいた。

「ああ、そこそこ有名だったよ。一時期は崩壊霊って言ったらきみの事を指したくらいだ。いや、もうほぼ天災クラスで――」

「どうでもいい。それより我輩以外は誰も来ていないのか」

 アルカの話を遮り、ルシアンがたずねた。

 するとアルカはうやうやしく手を伸ばし、ボックス席の片隅を示してみせた。

「あちらにザハリアーシュ教授が」

「……僕は准教授だ」

 低い声がアルカの言葉を訂正した。

 よくよく見ると、ボックス席の片隅に一人の男が座っていた。

 肩に触れる程度の長さのダークオレンジの髪。色白で端整な顔立ちをしているが、そのまなざしは険しい。長身に黒いコートを着て、腰にオレンジ色のストールを巻いている。

 メリーアン達を一瞥もせず、男はひたすら手元の原稿用紙に何かを書いていた。

「僕に構うな。君達の相手をしてる暇はない」

「ヨハン、また学会か」

 ルシアンがにやにやと笑いながらたずねると、男は鬱陶しげに首を振った。

「違う。さっき浮かんだアイディアを整理しているんだ。いいから僕のことは放っておいてくれ。思考の邪魔だ」

「……ヨハン、ザハリアーシュ? あの、もしかしてクラリッサのお兄様ですか?」

 ふと思い当たることがあり、メリーアンは恐る恐るその名前を口にした。

 すると初めて、男が顔を上げる。

「……妹の知り合いか?」

 鮮やかなエメラルドグリーンの瞳――それはたしかにクラリッサと同じ色だ。もっと近づけば、魔女の特徴である同心円状の模様が見えるだろう。

 男は長い前髪を掻き上げ、けだるげな口調で名乗った。

「いかにも僕はヨハネス・ザハリアーシュ……クラリッサは、僕の妹だ」

「メ、メリーアンです」

 メリーアンは慌ててスカートの裾をつまみ、膝を折って会釈する。

 ヨハネスは小さく鼻を鳴らした。

「……君のことは知っている。たまにクラリッサから話を聞いていたからな。ルシアンがこき使ってる幽霊だろう? 早く転職したらどうだ」

「人のメイドに何を勧めているのだ、お前」

 カウンター席からルシアンがぎろりとヨハネスを睨む。

 しかしヨハネスは軽く肩をすくめると、また手元に視線を戻した。

「……とりあえず僕の事はいないものとして扱ってくれ。思考の邪魔だ。あとアルカ、緑薬酒」

「はいよ、やっぱりストレートで呑むのかい?」

「当然。魔女の常識だ」

 アルカはうなずき、棚から酒瓶を一本取り出した。

 ルシアンが渋い顔でその酒瓶を見る。

「……あれをストレートか。正気とは思えんな」

「魔女の常識みたいですよ。魔女ってみんなお酒に強いんでしょうか」

 魔女という種族は、独特な髪の色や瞳の模様を除けば見た目はほとんど人間と変らない。ただ人間に比べると長命で、そして遥かにマナの扱いを得意とする。

「もしかして、アルコールの分解能力も人間を超えてるとか……」

「いや、そうではなくてな」

 真面目に考えるメリーアンに対し、ルシアンは重々しくため息をついた。

「……苦いのだ、あれ」

「あー……たしかに旦那様には無理そうですねぇ」

 アルカが運ぶ酒を見て、メリーアンは納得する。

 たしかにガラスのゴブレットに注がれたその酒は濃い緑色で、かすかに薬のようなにおいを漂わせていた。コーヒーさえ飲めないルシアンには駄目そうな系統だ。

 それを表情も変えず煽るヨハンの様子を見ていると、アルカが声を掛けてきた。

「お嬢さん、立ってないで座ったら?」

「え?」

 アルカはにこりと笑って、空いているカウンター席を示した。

「この通り席は空いてるからさ。好きなところに座れば良いよ」

「でも、私はメイドですから……」

 主人の許しがなければ座るわけにはいかない。それに日頃暴虐なルシアンがメリーアンに対し座るよう命じるとも思えない。

 しかし恐縮するメリーアンに対し、ルシアンが意外な言葉を発した。

「構わん。座れ、メリーアン」

「え、でも」

「許す。――店主が座れと言っているのだ。下手に断るとどうなるかわからんぞ」

 今までルシアンから座るよう言われたことはなかった。

 一体どういう風の吹き回しか。メリーアンはやや信じられない思いで主人の横顔を見る。ルシアンの表情はけだるげで、どこか面倒くさそうにも見えた。

 逡巡の後、メリーアンは「では、失礼します……」とルシアンの隣に座った。

 アルカはやや不満げに眉をひそめた。

「まったくきみはひどいな。人のことをまるで物騒な奴みたいに」

「実際、魔女街でも有数の面倒くさい奴だろう」

「そんなことはないさ。おれはしがないバーテンダーだよ。――しかし君は相変わらず暇そうだね。なんならおれとデートしてみる?」

「え、デート……? でも……ん……?」

 一瞬アルカの言葉にぎょっとしたメリーアンだったが、あざとく小首をかしげるアルカをみた途端何も言えなくなった。

 まったく性別がわからない。

 整った顔立ちをしているのは間違いない。しかし、まるで絵画の中の天使のようにその顔から男か女かを読み取る事ができないのだ。

 ルシアンはさして表情も変えず、くわえた煙草に火を付けた。

「男と付き合う趣味はないな」

「なるほど。きみ的にはおれは男に分類されるのか」

 ルシアンの前に灰皿を置きながら、アルカは意味ありげににやりと笑う。

「でも性別なんて些細な問題だぜ? 魔術師だって都合で性別変えるじゃないか。へーい旦那ー、おれと道踏み外してみなーい?」

「冗談じゃない。――それよりさっさと用件を言え」

「ちぇっ、せっかちだなぁ」

 アルカはやれやれと肩をすくめると、カウンターの向こうから一通の書簡を取り出した。

「おれの知り合いが飼ってたペットがさ、逃げちゃったんだ」

「まさか我輩にペット探しをしろと?」

「いや。殺処分して欲しい」

「ほう?」

 意外そうにルシアンが片眉を上げ、アルカから書簡を受け取った。

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