5.黄昏の魔女街

 低い声で呟くメリーアンの姿は、さらに変質しつつあった。

 激しく波打つエプロンドレスが変質し、ぼろぼろの白い衣へと変じていく。メイドキャップもまた溶けるように形を変え、血まみれた茨の冠に。

 自分が知らない何者かへと変わっていく――しかし、不快感はなかった。ただ圧倒的な解放感がメリーアンの心を浮き立たせていた。

 静かな興奮の中で、彼女はいつかのルシアンとの会話を思い出す。

 ――魔女街の人間は過去しかみておらず、メリーアンは未来の不安にばかり怯えている。

 アッシャータは、全ての時間軸の自分――あるいは他者を否定した。

 人が羨む財は彼にとって無意味でしかなく、また人間そのものも無価値だった。

 だから求め、望み続けた。

 そうして、手を出してはならないところに指を掛けてしまった。

 あの中途半端な姿はきっと、彼の心そのもの。

「蛇にも、獅子にも、山羊にもなれない――」

 オールワーカーが鬼火に包まれ、手の中から溶けるように消え去った。

 仮面のように表情のない顔で、メリーアンは手を高く上げる。

 天が震えた。獣の咆哮にも似た轟音を立てて、キマイラの真上に雲が押し寄せた。

 その雲は、手掌の形をしていた。

 雷光が閃く雲が巨大な手の形をとり、キマイラを覆い隠す。吠え立てる怪物の姿は瞬く間に暗紫色の雲に呑まれ、見えなくなった。

「お前は永遠に何者にもなれないまま、死ねばいい」

 冷たく甘い囁きとともに、切っ先がゆっくりと振り下ろされた。

 雲の掌がキマイラを押し潰した。雷光が炸裂し、乱気流がその肉体を引き裂く。

 怪物の悲鳴は、人間の絶叫に似ていた。

 雷鳴よりも高く轟くアッシャータの成れの果ての叫び。

 それにメリーアンは一瞬微笑み――しかし、すぐに怒りの表情を浮かべた。

「――駄目だ、これじゃ足りない」

 メリーアンはゆるゆると手を顔で覆う。その瞳から、つっと血の雫が零れた。

 髪を掻き乱し、メリーアンは激しく首を振る。

「お前は私に何をしたと思っている? 苦痛が足りない――もっともっと泣き叫べ! お前のせいで私は――私は……私……」

 はた、とメリーアンは動きを止めた。その瞳から、つっと血が零れた。

 両目から零れる赤い涙を拭い、メリーアンは呟く。

「私は――誰だ?」

 何者に向けたわけでもない問いかけ。

 それを口にした瞬間、急激に視界が揺れた。わけのわからない激情で思考が真っ白になり、メリーアンはわけもわからずに両手で頭を押さえた。

 そのまま悲鳴を上げようとした瞬間――いつも通りの彼の声が聞こえた。

「メリーアンだ。さっき自分で言っただろう。」

 いつの間にか背後へと近づいたルシアンがメリーアンの肩に手をかける。

 その瞬間、メリーアンの構成霊素エクトプラズムが止まった。恐慌状態に陥りつつあった精神がわずかな平静を取り戻す。

 それを写し取るかのように白い衣の形が揺らぎ、エプロンドレスへと戻っていく。

「だん、なさま……」

 メイドの姿に戻ったメリーアンが、呆然とルシアンを見る。

 ルシアンはにやりと笑うと手をずらし、メリーアンの肩を抱くような姿勢になった。濡れた黒髪が首筋に触れ、メリーアンは思わず身を震わせた。

「お前はメリーアンだ。そうだろう?」

「それ、は……そう、です……私はメリーアンのはず……」

 メリーアンは額を抑え、小さく呻いた。

 当然だと言わんばかりにルシアンはうなずく。彼の顎に肩がぐりぐりと刺激され、メリーアンは思わずまた身をよじらせた。

「そうだ、お前はメリーアンだ。かつてはテンペスト。そして今は我輩のために時間稼ぎをすると言った、まぁまぁ優秀なメイドだ。――そうして今、時は満ちた」

 ルシアンはメリーアンの肩から顎を離すと、左手を招くように動かした。

 地上で何かが煌めいた。

 主人の呼び出しに応えたコラプサーが地面から急速に飛来し、目の前で静止する。柄を真上に向けて浮かぶそれに、ルシアンは手を掛けた。

「――さすがにテンペストの力があっても、奴の再生力では難しいか」

 ルシアンは赤い瞳を、キマイラを呑み込んだ雲へと向けた。

 落ち着きを取り戻していた雲の向こうに、影が揺らめいた。すぐにそれは膨れあがり、元の怪物の形を描き出す。

 やがて大蛇が雲を引き裂き、完全に再生したキマイラの姿が二人の前に現われた。

 己の健在を誇示するかの如く、キマイラは獅子の頭を揺らして高く咆哮を上げた。その胴体を取り巻くように蛇が蠢き、山羊の蹄が空を掻く。

「……嗚呼、嗚呼。何度、何度現われても同じ……」

 元の形を取り戻した敵を前に、メリーアンの構成霊素が再びざわめきはじめた。

 低い唸りとともに鬼火が燃え盛り、メイドの衣装が再び歪んだ。

「何度でも殺す……殺してやる」

「落ち着け。可愛げのないことを言うんじゃない」

 ルシアンの手がメリーアンを制す。

 メリーアンのざわめきが再び止まり、燃え盛っていた鬼火が静まる。しかし今度のそれは、ルシアンの声がもたらしたものではない。

 不規則に瞬く紫の瞳で、メリーアンはルシアンの手元を食い入るように見つめた。

「だんな……さま……その、けんは……」

 心臓の鼓動の音が聞こえる。

 それは当然メリーアンのものでもなく、ルシアンのものでもない。

 その音は、コラプサーから聞こえていた。そして規則的なその鼓動に呼応するように、漆黒の刃からじわじわと影がにじみ始めていた。

 ルシアンが不穏に唇を吊り上げた。

「……こいつをどうしてお前の楔に使ったと思う?」

 まるで煙の如く細く影を漂わせるコラプサーを、ルシアンは構える。

 途端、周囲の空気が急激に冷えていった。構成霊素に怖気が走り、メリーアンは思わず立場も忘れてルシアンに体を寄せる。

「だ、だんなさま……」

「これは我が師であり――暗夜の蛮神であったホロウマリアの剣。原初の暗闇より生み出されたこれは万象を喰らい、飲み込む。……無論、マナも」

 狂騒に陥りつつある思考の中でも、メリーアンは理解した。

 ルシアンはこの剣にメリーアンのマナを喰わせることで、制御させていたのだと。

 周囲が暗くなり始めた。ルシアンが影を展開するときに聞こえる森のざわめきにも似たあの音が、いつもよりもずっとはっきりと聞こえてきた。

 不吉な予感を感じたのか、キマイラが悲鳴にも似た甲高い声を上げた。

 たじろぐ怪物を前に、ルシアンは低い声で笑う。

「これはお前みたいな手合いにはちょうどいい……なにせ、喰い尽くすからな」

 ルシアンは剣をゆっくりと振り上げた。暗闇の中で、赤い瞳が煌々と光っていた。

 キマイラは一瞬、逃げ出しそうなそぶりを見せた。

 しかし、全身を覆っていた青白い光が激しく明滅する。見る見るうちにその骨肉が音を立てて変形し、キマイラの形がより攻撃的な形へと変異する。

 大蛇の首は装甲に覆われ、獅子の顎があちこちに現われ、槍にも似た骨が突きだし――。

 それは、アッシャータの最後の意地のようだった。

 彼はまだ、戦うつもりだった。

 キマイラは銀のたてがみを揺らし、影に包まれつつあるルシアンめがけて吼えた。

 その声に、ルシアンはどこか感じ入ったようにうなずいた。

「ふん……その意地があれば、なんにでもなれただろうに」

 ゆっくりと振り上げられた切っ先が、ついに天頂を指した。

 変異を続けるキマイラが咆哮を上げた。

 その瞬間、体に表れた無数の顎から青白い炎が噴き出す。さながら艦砲の斉射の如く、キマイラの全ての顎から幾万もの鬼火が放たれた。

 まるで太陽が現われたかのような光量が暗闇を照らし、押し寄せてくる。

 しかし――それは瞬く間に、影に喰われた。

「これで幕だ。――永遠に沈め、アッシャータ」

 コラプサーが悲鳴にも似た音を立てて、空を切り裂いた。

 その瞬間、斬撃の軌跡からどっと影が溢れ出した。その一撃は、メリーアンがアッシャータの精神世界で撃ったものに似ていた。

 しかしその威力と禍々しさは、比べ物にもならない。

 影は津波の如く――あるいは龍蛇の群れの如く、空に現われた鬼火の一撃を飲み込んだ。

 音も無く、黒い龍蛇の群れは滑るように空を覆う。

 それは瞬く間にキマイラを飲み込んだ。キマイラは骨肉の槍や大蛇の顎をひたすら繰り出し、狂ったように吠え立てたが、まったく無意味だった。

 体表を覆っていた青白い光が弱まる。同時に、その肉体がどろどろと朽ち果てていく。

 凄絶な断末魔の声も闇に呑まれ――やがてぶつりと消えた。

 やがて影は薄らぎ、霧散した。そこにはもう、キマイラの――アッシャータの姿はない。

 完全に、喰われてしまった。

 アッシャータ・ブレイズ・アルタイルは、完全にこの世界から消失した。

 それを確認した瞬間、メリーアンの緊張が完全に解ける。

 同時にまた、その思考が激しい感情に浚われた。

「あ……ああ……あ……」

 メリーアンはふらつくようにルシアンから離れた。

 それまで抑えられていた感情の波――何者かの激情が再びぶり返しつつあった。エプロンドレスはまた歪み、元の金刺繍された白い衣へと形を変えていく。

 だらだらと血の涙の零れる眼を押さえ、メリーアンは必死で手を振るった。

「下がって……下がって……わからない……もう、もうだめです……」

 かすれた声でメリーアンは必死で訴える。

 目の前の――黒髪に赤い瞳をした男が、誰なのかもわからない。一瞬前まで確かに名前を覚えていたはずなのに、感情の波が思考を塗り潰す。

 それでも大切な人だと言うことは覚えていた。

 そんな彼を、メリーアンは必死で自分から遠ざけようとする。

「怖いのが来る……怒っている私が来る……きっと、きっと貴方を殺す……殺したくないのに……だから、だからおねがい、おねがい――」

「――よく保った」

 ルシアンは囁き、コラプサーをメリーアンに向ける。そしてまったく淀みのない動きで、メリーアンの胸にその影から打ち上げられたような切っ先を突き刺した。

「あ――」

 メリーアンの背中が大きくのけぞり、天を仰ぐ。

 極限まで見開かれた紫の瞳が、急激に速度を落としていく雲の流れを映した。

 痛みはなかった。

 ただ、あの春の夜に契約を交した時と同じ衝撃を鳩尾に感じた。

 ゆっくりと斃れそうになるメリーアンの背中を、ルシアンの手が支えた。彼はそのままメリーアンの耳に口を近づけ、短く囁いた。

「冥王が告ぐ。ルシアン=マレオパールの血と剣と名前を以って、幽かなるものに楔を打つ――在るべき形に戻れ、メリーアン」

 構成霊素の変異が止まる。

 ルシアンはそのままの姿勢で、コラプサーを握る手に力を込めた。漆黒の剣身はなんの抵抗もなく胸の中に消え、瞬く間に柄頭まで吸い込まれる。

 それに伴い、メリーアンの姿も緩やかに元の姿を取り戻していった。

 眼と首とを濡らしていた血が止まった。

 ぼろぼろの白い衣が、元のメイド装束へと形を戻す。

 それに呼応するように、周囲の様相も見る見るうちに変化していった。

 雨は弱まり、涼やかな風が吹き抜ける。

 潮が引くように暗い紫の雲が引いていくと、金色の夕陽が魔女街へと降り注いだ。

「あ……私……」

 我を取り戻したメリーアンは眼をまたたかせる。

 首筋に触れ、眼に触れる。もう血の雫は零れていなかった。そうして頭に触れると茨の冠ではなく、ひらひらとしたメイドキャップのリボンが指をすり抜ける。

「……自分が誰だか、わかるか?」

 静かな問いかけに、メリーアンははっと我に返る。

 風に黒髪をなびかせて、ルシアンがじっと見下ろしてくる。陽光に赤い瞳が煌めいて、まるでルビーのようだと思った。

 その瞳を見つめて、メリーアンは自分の胸を押さえる。

「私は……私の名前は、メリーアンです。旦那様のメイド。そして監獄館の猟犬」

「……間違っているな」

「えっ、そんな――ッ!」

 メリーアンの顔がさっと青ざめた。

 正しいと思っていた自分の記憶に誤りがあった――それだけで、元に戻ったばかりの構成霊素が不安にざわつく。

 しかしルシアンは呆れきった様子で、そんなメリーアンを見下ろした。

「お前は猟犬といえるほど鋭い顔つきをしていないだろう。もっとこう……なんというか、ポメポメした感じの」

「ポ、ポメポメってなんですか!」

 メリーアンは顔を真っ赤にして、ルシアンから離れた。

 ルシアンは額に手を当てて、深くため息を吐く。そして、にっと笑った。

「……美しいな」

 満足げなその言葉に、なおも吠え立てようとしていたメリーアンは口を噤んだ。

 辺りを見回す。マジックアワーを迎えた夕空にアッシャータの姿はなく、彼女の一側面であるテンペストはもう眠りについた。

 そして眼下には、いつも通りやかましく禍々しい魔女街の景色が広がっていた。

 色とりどりの明かりが一つ、また一つと灯っていく。

 ギャングの銃声、呪術師の呪詛。真下に広がる貴賓区では、外出していたおかげで生き延びた金持ち達が更地になった屋敷跡を見て呆然としている。

 その全てを見つめ、メリーアンもまた微笑する。

「……ええ。とても、美しい景色だと思います」

「ふん。景色だと思ったのか」

「え……? それ以外の、なんだというのですか?」

 戸惑うメリーアンの頬に、ルシアンの手が伸びた。

 それは幽体をすり抜けるのも構わず、メリーアンの髪をすくい取るように動く。

 メリーアンは困惑して、ルシアンと彼の手とを交互に見つめた。

 やがてルシアンはふっと笑みを深め、その手を離した。

「――さて、なんだろうな」

「ちょ、ちょっと! 結局なんなんですか!」

「さてな。とりあえず降りるか。いい加減、飛び続けるのにも飽きてきた。それにお前もずいぶん疲れただろう」

「私は別に――っと」

 言いかけたところで、ふらりと視界が傾いた。

 曖昧な五体の感覚がさらにぼやけた。そのまま風に流され吹き飛びそうになるメリーアンの手を、いつの間にか手袋を嵌めたルシアンの手が掴み取る。

「――どうやってか構成霊素を復元したようだが、さすがにここ数日は無理がかかりすぎた。しばらく休め」

「そんな……もう私は十分お休みを――」

「もっと休め。我輩が命じる」

「うう……合点承知です……」

 しょんぼりとうつむくメリーアンを器用に抱え、ルシアンは地面に降り立った。

 あふ、とメリーアンは小さくあくびをする。呼吸の必要も無く、長い間睡眠さえとっていなかったが、体は生きていた頃の記憶を覚えているようだった。

 それで、思い出す。

「……テンペストが――彼女が、本物の私なんでしょうか」

 先ほどの記憶は、しっかりと残っている。

 確かにアレは、自分だった。テンペストはメリーアンの内から目覚め、その構成霊素を速やかに変異し、わずかな間でも現実に顕現した。

 一体どのあたりから、自分の意識が彼女のものになっていたのかもわからない。

 それくらい、メリーアンとテンペストとの境界は曖昧なのだろう。

 けれどもメリーアンには、受け入れがたい存在だった。

「なんだか……確かにアレは私なのです。彼女は間違いなく私で、今も私の中にいる。でも、もし彼女が生前の姿なら……本来の姿なら、私は――」

 メリーアンの自我は偽物なのか。

 契約によって生み出された仮初めのものなのか。

 そんな不安に包まれるメリーアンの耳に、ルシアンのため息が聞こえた。

「またしょうもないことを考えているな、お前は」

「あいたっ」

 手袋を嵌めた手で額を弾かれ、メリーアンは悲鳴を上げる。

 ルシアンは憮然とした顔で、腕の中のメリーアンを見下ろしていた。

「本物も偽物も、生前も死後もない。今ここにお前がいることが全てだろう。それ以外に何がある? どのみちお前もテンペストも我輩のしもべだ。さして変わらん」

「いや、色々とあると思いま――というか変わりますよ、色々!」

 いくらなんでもその理屈は乱暴だと、メリーアンはぷりぷりと怒る。

 ルシアンは濡れた黒髪を掻き上げ、肩をすくめた。

「――それに我輩は、契約に当たってお前の魂にはさほど手を加えていない。……お前はテンペストを鎮めた時に、自然と現われた」

「えっ……?」

 その言葉に、メリーアンは虚を突かれた。

 大きく見開かれた紫の瞳を見下ろして、ルシアンは指を二つ立ててみせた。

「東方の呪術には、魂には二つの側面があるという学説がある」

 それは荒々しい側面と、穏やかな側面だとルシアンは言った。

 荒ぶる側面は時に災いをもたらしつつも、その強い力から道を切り開く。穏やかな側面はその対極にあり、調和と平穏をもたらす。

 この二つが揃っていることが霊魂にとって自然な状態なのだと、ルシアンは言う。

「この考え方に則れば、まさしくテンペストは荒ぶる側面、お前は穏やかな側面だと言うことになる。お前はテンペストであり、テンペストはお前だ」

「え、えっと……それは、つまり……?」

「どちらもまた本物――単純で良いだろう。わかったら寝ろ」

「あたっ」

 また額を弾かれ、メリーアンは小さく悲鳴を上げる。

 貴賓区はもう、何もなくなっていた。贅を尽くした館や広大な庭園は跡形もなく破壊され、ただ不毛な瓦礫の海だけがそこに広がっている。

 ルシアンはその様子を無視して、そのまま帰還するつもりのようだった。

「私の白亜の居城はどこにいった!」

「舞踏会から帰ってきたら館がないなんて! 明日からどうすればいい!」

「どれだけの金を使ってあの豪華な墓場を作ったと思っている!」

「知らん。我輩悪くないもん」

 わめき立てる金持ち達の狭間をひょいひょいと避け、ルシアンは街区の出口へと向かう。

 眠気と疲労をこらえつつ、メリーアンは重たい手を持ち上げて額をさすった。

 痛みはない。ただ確かに、弾かれた感触は伝わった。

 今までの戦いで、様々な損傷を受けた。何度もバラバラになった。その都度、メリーアンの霊体は確かに痛みを感じていた。

 あの痛みは紛れもなく現実のもの。

 本物だろうと偽物だろうと関係なく、メリーアンが確かにそこにいるという証。

 ぼやけた意識の中、メリーアンはなにか温かなもので胸が満たされるのを感じた。

「おいっ、マレオパール! 今度こそちゃんと死んだか!」

「メリーアンはいる!? 無事なの!?」

 ディートリヒとクラリッサの声が聞こえる。

 それに対しルシアンが何か叫び返したようだが、眠気のせいでいまいちその内容が頭に染み込んでこない。ただ、ディートリヒに相当な罵倒をした気がした。

 ――嗚呼、私は確かにここにいる。

 鼓動のないうつろな胸を、確かな満足感が満たしていた。

 メリーアンは幽かに微笑むと、小さくあくびをして、まぶたを閉じた。

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