3.錆色の髪のディートリヒ

 アルカはカウンターの向こうからいくつかの書類を出した。

「【虎】の体内から魔物の血液が出てきた。それも複数種類」

「……血液?」

 ルシアンが赤い瞳を細める。

 アルカはぱらぱらと書類をめくりながら、子供っぽく唇を尖らせた。

「少なくとも確認できただけで吸血鬼ヴァンパイア呑船大蛇シーサーペント、牛頭の狩人ブルヘッド月追犬ルナハウンドに……」

「吸血鬼だと? そんな希少品が出てきたのか」

 ルシアンが驚愕の声を漏らした。

 最初期に金環教に迫害された種族でありながら、吸血鬼は未だ脅威とされている。強力な力を持つ彼らの素材は、この魔女街の市場でもほとんど出回らない。

「うん。純度は相当低いけど、間違いなく吸血鬼だ。これ以外にも最低でも数十種の血液があの【虎】の残骸から出てきたわけ。物騒だよねぇ」

「……なるほど。つまり――」

「虎が魔物を食べちゃった……?」

 ありとあらゆる可能性を考慮した上でメリーアンは結論を出した。

 そんな彼女をルシアンは哀れむような目で見下ろす。

「……お前は時々とても愉快な想像をするな」

「え、何か楽しいところありました?」

「魔物ってねぇ、本来異界に住み着いてるものでさ」

 アルカは苦笑しながら、後ろの棚から赤いリキュールを一本取りだした。

「基本的に現界の生物って異界の物を本能で避けるんだよ。だからたとえ魔物の死骸が落ちていたとしても、普通の生物はなかなかそれを喰ったりしないわけ」

「それじゃどうしてあの【虎】の中から魔物の血液が――?」

「誰かがどうにかして摂取させたのだろうな」

 ルシアンの言葉に、リキュールの蓋を閉めながらアルカは渋い顔でうなずく。

「だろうねぇ。こっちの生物が異界のものを体内に取り込むと、肉体と霊体が変異を起こす。そうして変貌し、自らも魔物になってしまう」

 赤く輝くリキュールを満たしたグラスを軽く持ち上げ、アルカは微笑した。

「――ね? ルシアン?」

「おい、我輩に振るなよ。……同類にされるのは不快だ」

 ルシアンは唇を吊り上げた。

 それは形だけを見れば笑顔だった。しかし、ぞろりと並ぶ鋭い歯をわずかに剥き出したその表情はどちらかというと獣の威嚇じみていた。

 ルシアンが相当気分を害した時に見せる表情だ。メリーアンは震え、身を縮めた。

「あー、そうだね。君はオンリーワンだ」

 怯えるメリーアンをよそに、アルカはひょうきんに肩をすくめた。

「虎がどうしてああなったかは、旧子爵に話を聞いた方が良いだろうねぇ。飼育環境とかそのへんの話全然聞いてなかったからさぁ。――ちなみにこの旧子爵、君のファン」

「何?」

「冥王マニアだそうだ。これも魔女街追放の原因らしい」

「ほう。ちなみにその旧子爵は女か?」

「いや、結構ガタイの良いメンズ」

「へぇ……ならばどうでも良い」

「旦那様、失礼ですよ」

 メリーアンがたしなめると、ルシアンは唇の端を下げてそっぽを向いた。

 アルカが「ともかくだ」と軽く両手を合わせた。

「最近、なんだか魔女街が落ち着かない感じでね……。正直組合に招集掛けちゃいたいとこけど、根拠がおれの感覚だけじゃねぇ」

「……なるほど。それで、お前の目に付いた異変を解決していっているわけか」

「そういうこと。だから君には今後も馬車馬の如く働いてもらいたい」

「ふざけるな。我輩はやらないからな」

 ルシアンは断固たる口調で言うと、アルカはぷーっと頬を膨らませた。

「君、本業は便利屋だろう? こういう時にこそ働かないと。報酬も出すからさぁ」

「え、旦那様って便利屋さんだったんですか?」

 完全に初耳だったメリーアンは目を見開き、口元を覆った。

 するとルシアンは激しく首を振った。

「断じて違う! なんでも雑用を請け負うような言い方をするな。我輩は面白そうな仕事しかやらない。――つまり遊び人だ。一緒にされては困るな」

「何も誇れませんよ、旦那様」

「うーん……それじゃ、メリーアンちゃんはどう?」

「何……?」

「え、私ですか?」

 その言葉にルシアンはぴくりと眉を動かし、メリーアンは戸惑った。

 リキュールを飲み干し、アルカはにやりと笑った。

「昨日の【虎】退治を見てて思ったけどさ。君には今後もおれ達の手伝いをして欲しいんだよねぇ。君ほど強い幽霊というのもなかなかいないし」

「そ、そうなんですか……?」

「そうとも!」

 アルカがぐっと身を乗り出してきたので、メリーアンは思わず身を引いた。

 はっとするほど青い瞳を縁取る長いまつげ、絹のようにするりと滑らかな肌――間近で見ると、アルカはいっそう性別がよくわからない顔をしていた。

「そして君は第四区支配者であるルシアンの配下だ。オーダーを受ける資格は十分にある。手続きを済ませれば、君も組合員だ」

 薄紅色の唇に薄く笑みを浮かべて、アルカはメリーアンの頬をそっと撫でた。

 鈍い触覚のせいでその肌の感触はほとんどわからない。

 だがその蠱惑的な所作に何故かどぎまぎして、メリーアンはまごついた。

「し、資格十分……? 私がですか……!」

「もちろん。当然相応の報酬は出そう。――それで、どうする?」

「え、えっと……」

 覗き込んでくるアルカから目を逸らしつつ、メリーアンは悩む。

 人の役に立つことは好きだ。誰かのために心を尽くして行動していると、生前の記憶がないという不安感を紛らわせることができる。

 だが、ルシアンがとても許してくれるとは思えない。

 実際、隣に座っている彼の機嫌がどんどん悪くなっていっているような気がする。

「やってくれるんだったら万全にサポートするよ。どう? かるーくやってみない?」

「それは、その……」

「おい、我輩を抜かして話を進めるな。こいつの主人は――」

 ついにルシアンがやや声を荒げた時、からんころんとドアベルの音が響いた。

 その場の全員の視線が、一気にバーの扉に向かう。

「なっ……」

 古ぼけた軍服に身を包んだ一人の青年が、驚いた顔で立っていた。

 年は十九、二十くらい。錆色の髪を一部だけ伸ばし、三つ編みにしている。背はやや低いものの、服の上からでも筋肉質な体つきをしていることが見て取れた。

 青年は驚いた様子で店内を見回す。その銀色の瞳に、ルシアンが映った。

 途端、その表情が一気に歪んだ。

「マレオパール……!」

 押し殺した声に嫌な予感を感じ、メリーアンはとっさに左手に鬼火を灯す。

 しかし、その時にはすでに青年の姿は戸口になかった。

 まばたきをする間に彼は移動し、ルシアンの顔面めがけて拳を叩き込んでいた。

「旦那様ッ!」

「……ディートリヒ、なかなかの挨拶だな?」

 すんでの所でルシアンは青年の拳を防いでいた。

 引きつった笑みを浮かべるルシアンに、ディートリヒと呼ばれた青年が歯を剥き出す。

 歯、というよりもそれはもはや牙だった。

 ルシアンも相当鋭い歯をしているが、ディートリヒのそれは肉食獣のそれに似ている。

「てめぇにはこれで十分だ。マレオパール、この糞野郎が」

「こんにちはぁ、ディーくん。最近忙しいんじゃなかったの?」

「……いや、まだ忙しい。今日はその件でここに来た」

 気の抜けたアルカの挨拶に、ディートリヒはようやく拳を下ろした。

 そして、鬼火を纏ったメリーアンに目を留める。

「メイドか? なんでここにいる?」

「……旦那様がお伴するよう命じられたので」

 まだ警戒を解かないまま、メリーアンはぎこちなく答えた。

「旦那様? 誰の事だ? 准教授、あんた知らない間にメイドを雇ったのか?」

「……僕がメイドなんか雇えるわけがないだろう」

 ボックス席で死んだように沈黙を続けていたヨハネスが疲れ切った声で答える。

「ディーくん、こっちはメリーアンちゃん。ルシアンのメイドだよ」

 苦笑しながらアルカが紹介する。

 その途端、ディートリヒの鋭い眼光に一気に同情と憐憫の色が滲んだ。

「それは――可哀想に。運が悪かったな、嬢ちゃん」

「え、え?」

 警戒していた相手に急に労われ、メリーアンは混乱する。

「おい、ふざけるなよ。我輩のメイドの何が可哀想だというのだ?」

「てめぇと関わる奴は皆不幸に決まってるだろ。――アルカ、とりあえずビール。あとソーセージ。いつも通りそのまま出せ」

「あーい、了解」

 気の抜けた返事とともにアルカは酒の用意を始めた。

 どうやら修羅場は終わったらしい。アルカの様子からそう判断したメリーアンはとりあえずそろそろと鬼火を納めた。

 ディートリヒはサーベルをカウンターに立てかけ、疲れ切った様子でため息を吐いた。

「正直もう俺達じゃ手の打ちようがねぇ。組合に助力を乞いたい」

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