第十八章 その5

 目の前には……さっき女に見せた手には、オレンジ色の花が咲いていた。それが炎の光に照らされて、赤みが増している。それは昔見た夕陽の色だった。


 父の世話をしていた日々の中、スーパーからの帰り道でよく夕陽に染まった海を、足を止めて見ていた。忙しない中で、ほんの一瞬だけ訪れる自分自身の時間。


 拒絶するわけでもなく、かと言って寄り添ってくれるわけでもなく。赤く染まる空と海を見るたびに孤独を感じたが、それは父のことを気に掛ける人々や、クラスメイトたちと一緒にいるときとはまた違う暖かな孤独だった。そのなかでは確かに自分自身のための呼吸を深くすることができた。


 瞼の裏にはあの夕陽がたしかにあった。


 なにをするでもなく、ただ美しくて、暖かった。


 俺は息を吐き切ると、ナイフを思いっきり引き抜いた。




「父さんっ!」

 ぼくは玄関に飛び込むとただいまも言わずに父を呼んだ。

 おう、と父が短く返事をする。姿は見えないがどこにいるのかすぐにわかった。

 ぼくは廊下を走って居間に行くと、やはり父はそこにいて、縁側に座り庭を眺めていた。


「お花見に行くんじゃなかったのか?」

「うん。そのつもりだったけど、スーパーでおはぎが安かったから」


 ぼくは手にしていたおはぎのパックを父に見せた。それを見つけた時、お花見のお菓子代としてもらったお小遣いをすぐにそれに使った。二つ入っていたので父と二人で食べるのに丁度いいと思った。それですぐに引き返してきたのだ。


 残念なことといえば、おはぎが粒あんではないことだ。


「麦茶とってくるね」


 ぼくはおはぎのパックを父のそばに置くとすぐに台所に向かい、コップと麦茶を持って戻ってくる。


「それにお花見だったら家でもできるし」

 ぼくはそう言って隣の家から見える桜を見た。その桜は塀に隠れて全部は見えなかったが、ピンク色に染まった上の部分はちゃんと見えた。


「小さいじゃないか」

 父は軽く笑う。いいんだよ、と言ってぼくは父の隣に座った。

「父さんこそ、桜見に行かなくてよかったの?」


 父に一緒にお花見に行こうと誘ったが、父は歩くことがしんどいことを理由に断ったのだ。

 歩くことがしんどいというよりは、ぼくが父を支えて歩かなきゃいけないので、ぼくの負担を考えて断ったのだ。ぼくはそのことを知っている。

「お父さんはいいんだよ。小さな桜でも十分満足だ。それに……」


「それに?」

「家でこうやってカナトといられるのが一番いいんだ」


 その言葉はじんわりとぼくの胸を暖かくした。

 目元まで熱くなって、ぎゅっと目を閉じると不思議と雫がぼろぼろ落ちてくる。


「なんで泣いているんだ?」


 父が驚きを隠せない声で聞いてくる。

 ぼくは恥ずかしくて本当は違う、泣いてないと言いたかった。なのに言葉はぼくの意図とは違うものを紡ぎ出す。


「来年も、その先もずっと一緒に桜見ようね……」


   ❇︎ ❇︎ ❇︎


「はぁ……東京の中心か……結構、時間がかかるぞ」


 メモに書かれた住所を見て私はため息を吐いた。家から持ってきた簡易的な包囲磁石に地図、それから道路にある標識を頼りにするしかない。果たしてこれで辿り着けるかどうか、不安は拭えない。歩きながらの独り言に応える声があった。


「たいへん?」


 隣を歩くカヨだ。一瞬、娘かと思って身をこわばらせて立ち止まってしまった。すぐに声の主を思い出して、カヨの方に顔を向けて笑いかけた。


「いや、大丈夫だ。おじさんと一緒に行けば心配ない」

 同じく立ち止まったカヨは納得していないのか、青年からもらった花の種をみぞおちに持っていき、ぎゅっとにぎりしめた。


 その時、ぱたっと何かが私の肩にあたり、空を見上げる。空は晴れていた。それにもかかわらず、再び空から落ちてきた水滴が頬にあたる。

 せきを切ったようにぱらぱらと細かい雫が落ちてくる。


 晴天の雨だ。


 雨が、空中に一瞬だけ存在する水の粒が、空から道を作って光を運んでくれる。雨粒は反射し、虹色に光っては、ぱたぱたと踊る。


 地上に光が溢れてくるようだった。


「お天気雨か。珍しいな」

「晴れているのに雨がふるの?」


 カヨを見ると、カヨも片手を広げて雨を受け止めている。雨が入らないように目を細めていた。

 呟きに答える声があるのに、いちいち驚いている自分に苦笑いが浮かぶ。慣れるのにどれくらい時間がかかるだろう。


「ああ、そうだよ。狐の嫁入りとも言うね」

「きつねさんが結婚するとき、雨がふるの?」


 カヨは初めて驚いた顔をした。

「いや、それだけ珍しいっていう意味さ」

 カヨは言葉の意味を考えるようにうつむいた。


 繊細で小さな雫がカヨの毛先にまとわりついて輝く。空からのささやかな贈り物は髪飾りだった。


「どこかで雨宿りしようか?」

 カヨは黙って首を横にふる。


 そうだな、と私は心の中で同意する。

 このぬくもりにあふれた雨にあたりながら歩くのも悪くないかもしれない。

 じゃあ行こうか、と呼びかけるとカヨは手にしていた種の入った袋を守るように両手を重ねる。


 細い指の隙間から見えるのは、袋に印刷されている色とりどりのガーベラの花だ。徒花病は不思議なもので人によって生まれてくる花が違う。その者にちなんで花は咲く。青年の花はなんだろうか。考えながらも私はそれを知っているような気がした。


 彼は一日半、私の家で過ごした。そのあいだ彼はほとんどの時間を、私が無害であることを説明し、カヨを説得しつづけた。

 だから彼と一対一で話すことはほとんどなかったが、それでもずっと昔から彼を知っているような気がした。


 この花が咲く頃にやってきてくれよ。心の中で彼に語りかける。


「植えし植えば、秋なき時や咲かざらん……花こそ散らめ根さえ枯れめや」


 カヨが小さな淡々とした声で短歌をそらんじる。私はこんな小さな子供が短歌を知っていることに感心しながら、その歌を聞く。やがてカヨは私を見上げて聞いてきた。


「ねぇ、おじさん」

「なんだい?」


「あたしって生きていていいの?」


 思いもよらなかった問いかけに一瞬言葉が詰まる。青年のいなくなった今、どんな言葉もカヨには足りないだろう。私は膝をついてカヨと目線の高さを合わせる。


「ああ、生きていていい……いや、彼はこう言っていたよ」


 カヨはにじんだ瞳を丸く開いて私を見る。私は彼との少ない会話の中でこの子に対する思いを確かに聞いた。



「生きていてほしいんだ、て」


                           〈了〉

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骨の花葬 磊(コイシ)りえい @koishi-riei

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