第二章 その2
カワグチさんは不思議そうに首をかたむけた。一瞬カヨのこと、カヨがいたシェルターでの出来事を知っているのかと身構えた。しかし今は携帯電話やその他の通信機器なんて使えない。利用できるとすればトランシーバーぐらいだ。遠く離れたシェルターの出来事を知る手段なんてほとんどない。
カワグチさんは事情を察してくれたのか、それ以上は追求せず、自分のことを話し始めた。
「わたしたちはね、この徒花病が流行り始めた時はまだ大丈夫だったの。でも周りの人たちが死んでいって、避難勧告もでて……」
「特別区に行かなかったんですか?」
カワグチさんは首を振った。
「住みなれたところを離れるのは嫌だったの。わたしはここで生まれて、ずっとここで育ったわ。そりゃ、昔はこんなところ出ていってやるって思っていた」
そこで言葉を切ると、カワグチさんはコップに入った水をがぶりと飲んだ。
「でもそれが叶う前にお見合い結婚して、子供を産んで。いつの間にかそんな夢があったことさえ忘れていたわ。それを忘れて生きて、もうここで骨を埋めるのになんの抵抗もなかった……」
「ほ……ね」
カヨがぽつりと言った。カワグチさんは細い目を大きくしてカヨを見た。カヨは気まずそうに体をゆらす。
「そう、骨になるの。なるんだと思っていた……。避難勧告がでて、みんながここから立ち去って、わたしたち夫婦二人だけになっても離れる気はなかった。仲の良い夫婦じゃなかった。むしろ嫌い、いがみあっていたと言ってもいいぐらい。でも、そこだけは意見が一致したの」
「結婚って好きな人とするんじゃないの?」
カヨは小さな声で聞いてきた。
聞いたというよりは、言葉が勝手に出てきてしまったような感じだろう。その証拠に彼女は言ったあとに口をぎゅっと閉ざして、キョロキョロと周りをうかがう動作をした。
カヨはまだ美しい物語を信じているのだ。辛い日々を生きる中で、そんなものをよく信じられる気になれたな、と少なからず驚いた。
いや違うのか。家でも学校でも苦しいからこそ、美しい物語を信じているのかもしれない。それを心に留めることで、生きる糧にしていたのか。
「そうね。いまの若い子はそうなのかもしれないけど、おばあちゃんが若い頃はある程度の年齢になったらお見合いして結婚していたわ」
カワグチさんはしばらく沈黙したあと、再び話し出した。
「ここで最期まで生きていくんだと決めた矢先、わたしが徒花病に感染したことがわかったの。主人はわたしを罵ったわ。なんで感染したんだって。ひどい人。そう、あの人はいつだってそうだった。わたしが体調を崩しても、労る言葉なんてかけてくれなかった。むしろ、家事が滞っていることに怒ったわ。あの人のいいところは真面目に働いていたこと……ぐらいかしら」
カワグチさんは当時のことを思い出しているかのように、頬に手を当ててふっと細い息を吐いた。
「あの人はわたしが感染したと知った次の日に……ほらあなたの後ろにある仏壇。そこの容器に入っていたものをあの海で、飲んで死んだの」
俺は弾かれるように後ろを振り返った。そこには立派な仏壇があった。そのお供え物を置くスペースに、白いプラスチックのボトルが置かれている。ラベルも貼られている。DDVP……殺虫剤だ。
急に身体中の血管が凍りつくような感覚に襲われた。肌が粟立つ。
ひどく、寒い。
「あの人を見つけるのは簡単だった。わたしの散歩コースになっていたところだから。わたしは彼を見つけるとお葬式も埋葬もできないから、ビニールシートをかけたの」
俺はやっとの思いで、ひねっていた体を元に戻す。
「病院の隔離施設に行かないんですか? 確かに町を離れるのは寂しいかもしれませんが、ここにいるよりは生活のことは便利になりますよ」
老人がインフラの通っていないところで生活するには困難がある。隔離施設は出歩く自由はないが、その代わりに衣食は提供される。庭に穴を掘って、小さな五徳を使って煮炊きする必要はないのだ。
「ここに他の人が残っていたら、その人たちに感染させないように行ったわ。でも誰もいなくなったいま、ここで待つことにしたの」
「待つ?」
「あの人のそばで花になること」
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