第五章 その1

第五章


 タナシ家 アキラのいつもの昼


 ふむ、と私は青白い顔を撫でる。朝起きてから髭をそることも大切な日常の一つだ。鏡の自分も寸分違わぬ動作をする。皮膚の下にあるアゴの骨がいつもよりはっきりと感じる。痩せたのか。顔から手を離して手の甲を眺めると、血管と骨が浮き出ている。やっぱり痩せたな、と呟く。妻に自慢したら、きっと目を釣り上げて悔しがるだろう。想像するだけで、笑いが込み上げてくる。

 目の下に傷があるせいで人相が悪い。少しでもマシになればと笑って見るが、そんなに変わらなかった。

 もう一度アゴを撫でて髭の剃り具合を確認する。すべすべとまではいかないが、存在がわからないぐらいにしっかりと剃った。

「これで触っても大丈夫だぞ」

 私は洗面所から顔を出して、リビングに向かって話しかける。返答する声はない。私はそれでも満足する。

「最近は動物を見なくなった。もっと必要なのに……」

 独り言に反応する声もない。

 家の中は静かだった。前までは娘の走り回る音がしていたのに。娘は少しの移動でもパタパタと走り回った。ちょっと階段を登るのでも、おやつをもらいにキッチンまで行くのにも、どうしてだか走っていくのだった。そのくせしばらくすると電池切れになったかのように、ぱったりと動かなくなり顔をのぞきこむと、眠っていた。

 私は静まりかえった家を後にして、外に出る。動物がいないかどうか注意しながら街を歩く。

 ガサッと音がして、あわててそちらに顔を向けた。なにもない。庭の生垣の影で見えないのかとしゃがんで根本をのぞき込んでみたが、動くものはなにもない。念の為、庭に侵入して動物がいないかどうか探したが、なにもなかった。ただ、縁側のすぐ下に回覧板があったので、それが何かの拍子に落ちたのだろう。

 私は回覧板の袖ヶ浦南町内会という丸い字の文字を眺めた。きっとここの町内会会長は明るい人だったのだろう。わざわざ丸い文字を選び、周りに小さな動物の絵をあしらって、町内会の名前を楽しく明るく見えるように随所に工夫が見られた。

 私のいる袖ヶ浦北町内会の回覧板は、全てが明朝体で印刷されて、連絡事項がただ羅列されているだけのつまらないものだった。もしかしたらそれを真面目と捉えてもいいのかもしれないが。

 回覧板を縁側に置くと、私はその家から出て行った。


  ❇︎ ❇︎ ❇︎ 


「行こうか」

 人の往来がない寂しい道を再び歩き出す。崩壊はしていない。人がいなくなると、水没、アスファルトの崩壊、建物の瓦解がおこるはずだ。だが、まだそこまで廃墟になっていない。それでも、その町にいた最後の一人が失われたという事実が、虚無感を滲み出させた。

 歩いてしばらくするとカヨの指先が俺の手の甲に触れる。手を握りたいのだろう。俺はカヨを見ずにそのまま歩く。いつのまにか指先だけ触れていたのが、いまは手のひら全体が触れている。この手を握り返してやればこの子も安心するだろう。それは俺にもわかっていた。だが、それはしない。

 してはいけない。

 俺はカヨと必要以上に仲良くならないようにしていた。それがこの子のためなんだと言い聞かせながら。

 俺は彼女の手を振り払うこともなく、かといって握り返すこともなく、手が離れることのないギリギリの速度で歩いていく。

「あっ……」

 カヨが声を上げ、手の甲からカヨの指先が離れる。俺は何事かとカヨを見下ろした。カヨは俺たちが歩いてきた道を指さす。

「音……パタパタ音がする」

 俺も息を潜めてあたりの音を探った。

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