第四章 その3
静かにお参りをしていたカヨがパッと顔を上げて、驚いた顔でこっちを見てくる。
「さっき布団に潜っていたときに。別に隠すことでもないだろう」
布団の周りにはクレヨンが何本か転がっていた。それで隠せたと思っている方が不思議だ。
「……ネコちゃん」
五秒ほど沈黙したあと、カヨはようやく言った。
「そっか、カワグチのおばあちゃん見たがっていたもんな」
カヨは静かにうなずく。
「それと……おにぎりとあんぱん」
「へえ……」
どうしてその二つを描いたのか、聞くのは野暮だろう。
「おにぎりの具はなにが好きなんだ?」
カヨは唇を一文字に結んで首をかしげる。俺は微かに苦笑いを浮かべた。
「あんぱんは粒あんとこしあんどっちが好きなんだ?」
カヨは顔を上げて俺を見てくる。何を言っているのかわからない、といった表情だった。
「あんぱんのあんこの中身は二種類あるんだ。小豆のつぶつぶを残したのが粒あん。小豆を全部つぶしてクリームみたいにしたのがこしあん」
カヨはそれでもわからないみたいだ。
「カヨが食べたのはどっちだ?」
「つぶつぶなかった」
「それはこしあんだな。次は粒あんを食べるといい。粒あんは美味いぞ」
あの小豆のぷちっとした食感がいい。思い出して深くうなずいた。カヨも食べたら粒あんを気に入るだろう。
カヨはとりあえずといった感じにうなずく。
そういえば昔、母がおやつにおはぎを買ってきたが、それがこしあんだったのだ。俺は文句をつけたことがあった。
『なんで粒あんじゃないの?』
俺が粒あんが好きなことを知っているのにだ。
『だってこしあんのほうが美味しいじゃない』
『えーっ、粒あんのほうがいいよ。だって小豆って感じじゃん』
思いっきり不満そうな声をだしてやった。取り上げられそうになるおはぎを死守して、文句を言いながら食べた。食べながらどちらがいいか母と論争していたが、決着がつかず、夜になって帰ってきた父を巻き込んだ。
仕事終わりで疲れていた父は困った顔をして、どちらにもこだわりはないとキッパリと言った。俺は自分に味方してくれなかったことにむくれて、父の分のおはぎを部屋に持っていき勝手に食べてしまったのだ。
父は笑って許してくれたが、母にはその後厳しく叱られた。昔の思い出だ。
目の前の小さな子供が初めてあんこを食べた時はいつだったのだろう。
「あんぱんはどこで食べたんだ?」
「給食で……」
「学校の給食だったら他にもデザートはでるだろう」
毎日とはいかなくても、たまにデザートはでたはずだ。女の子が好きそうなものといえばプリンとかゼリーとかではないのか。
「……とられちゃう……」
カヨはコスモスの花壇の先、もっと遠くを見ているような目で言った。
「そうか……」
俺はその時の光景を思い浮かべた。子供特有の残酷な笑みを浮かべた生徒が、当たり前のようにカヨのものを盗っていく光景を。カヨの黒々とした瞳は、虚ろな眼差しでそれを見ている。
「いいか、カヨ。自分の好きなもの、気に入ったものを盗られそうになったときにはダメって言ったり、喚いたりしていいんだ……あとはぶん殴ってやれ」
教師が聞いたら眉をひそめるであろう教えを、俺は堂々と言った。だって教師は守ってくれない。
「ん……」
カヨはよくわからないといったふうに首を振る。それとも怖い思いをしたときのことを払拭するための動作なのかもしれない。
「怖いよな。でもそういったことをするのは、反撃してくる人間を恐れる奴らが大多数だ」
恐ろしいからこそ、反撃しなそうな人間をかぎつけて狙う。だから自分は反撃できる人間なんだ、と主張することが大切なのだ。
「なにより、結果はどうであれ、自分の好きなものを守るために行動したってことは自信につながるんだ。たとえ上手くいかなかったとしても、何かに立ち向かったことは誇っていいんだ」
周りの連中はカヨを認めるようなことは言ってくれないだろう。だったら自分で自分を認めるしかない。
「お絵描き帳とクレヨンは持っていくか? 描いた絵のページだけ切りとればいいんだし」
俺は話題を変えた。過ぎ去った嫌なことをわざわざ思い出させることはしたくない。
カヨは首を横に振って、考え込むようにうつむいた。
「……だって名前……書いてあるから」
それはお絵描き帳か、クレヨンにか。おそらく両方だろう。
カワグチさんはお喋りだった。自分の育った地元のことを細かく話してくれた。だが最初に話してくれた夫のことと母親以外、彼女の家族について話すことはなかった。
「お絵描き帳のそばで眠れるんだから、カワグチのおばあちゃんも喜んでいるだろうな」
俺はカヨの思い描いている美しい物語に合わせる。
振り返って、過ぎ去り見えなくなった町を、大量の百合を思った。
「植えし植えば、秋なき時や咲かざらむ、花こそ散らめ、根さへ枯れめや」
カヨが体の向きを変えて俺の顔をのぞきこんでくる。
「さっき庭で言った和歌だ。意味は、秋のない年だったら花は咲かないが、秋のこない年などないので、毎年咲くだろう。たとえ花が枯れてしまったとしても、根まで枯れることはない。だって……」
俺はカヨの頭に手を乗せる。カヨは驚いたように目を見開く。
「君が心を込めて植えた花なのだから……」
遺体にかぶさった百合を思い出して、葬送だったんだな、と唐突に理解した。
花を通した夫婦の心の交流。たとえ僅かなものだったとしても確かにあったのだ。そんな自分と夫の葬送。体から発生した花で遺体を覆い、それを埋葬としたのだ。自分自身でおこなう葬式。
きっとそうだ。
「花自体を墓標にした……花葬か」
カヨは俺の言いたいことがわからないのか、頭に手を乗せられたまま首をかたむけた。
突如として飛来した隕石。そこからもたらされた寄生花。
それで死んでしまったものたちの送り方を、人々はまだ見つけられていない。
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