第五章 その2

 何も聞こえない……と言おうとしたとき、微かに何かを叩きつけている音が聞こえた。もう一度耳を澄ませてみると、やはり聞こえる。静かな町では、誰かがアスファルトを遠慮なく踏みつけて走っている音は遠くからでも聞こえた。それも複数人。まだ姿は見えなかったが。

「走るぞ」

 カヨがうなずいたのを見て、俺は走り出した。

「クソッ! 待てっ!」

 怒声が聞こえ、振り返ると人影が複数あった。しかも距離が近い。恐らく近くにいたのに、物陰で見えなかったのだろう。

「もっと速く走れるか?」

 斜め後ろを真剣な顔で走っているカヨに聞いた。カヨはうなずいたが、それ以上速くなることはない。朝から歩きっぱなしで疲れているのだろう。むしろ遅くなっていく。

「っ!」

 カヨが声にならない声をあげて、転んだ。

「カヨ!」

 背筋が冷たくなる。彼らはもう近くまで迫ってきているのに。

 俺は意を決してカヨのところまで戻り、彼女を小脇に抱えると全力で走った。どこかに隠れるところは、とあたりを見回す。民家はところどころあったが、そこに逃げ込んでもすぐに追いつめられてしまう。

 冷静になれ、と自分を叱咤して走りながらまわりを見回す。

 拳銃を使っても一人か二人、足止めできるだけだ。なにより向こうのほうが人数は多い。弾もあっさり無くなり、すぐに襲われる。

 放置された車を使うことも考えたが、以前使おうとしたがどの車もバッテリーが上がっていたことを思い出す。どうすれば……と考えている時、陸地に乗り上げている小型の漁船が目に入った。しかもかなり傾いている。

 俺はその漁船に走って行った。回り込むと抱えていたカヨを甲板に乗せて、自分もよじ登る。その間にもあいつらは近づいてくる。

 予想した通り、地面側にかたむいている甲板の縁には放棄された釣り竿やクーラーボックスなどが寄せ集められている。

「おい、この辺りのモン、適当にあいつらに投げつけておけっ」

 彼らはすぐそばまで迫っている。俺は俺で巻網を見つけ、そこに向かった。かたむいている漁船の足場はすこぶる悪かった。甲板にものが散乱しているし、急斜面を横切って歩かないといけないからだ。ものを踏みこえて巻網のところまで行くと、それを両手で抱えてカヨのところに戻った。

 カヨは俺の言いつけ通り、そこいらにあるものをやたらめったら男たちに投げつけていた。興奮しているせいか顔が赤い。下をのぞきこむと彼らは上から降ってくるものに明らかに狼狽していた。おかげで彼らだって手を伸ばせばすぐに甲板に乗り込めるはずだが、いまだに縁に手をかけていない。一人はあたりどころが良かったのか、地面に突っ伏している。すぐ近くにクーラーボックスが転がっているから、あれが当たったのだろう。

 そばから手がぬっと伸びてきて縁をつかんだ。俺はその手をすかさず蹴りつける。

 手は他にも伸びてくる。蹴りの届かないものは近くにあった釣り竿の持ち手の方で叩いて落とした。

 男たちはうめき声を上げて落ちていく。

「よくやった!」

 カヨのところに戻ると巻網のはじっこを持たせ、素早く広げる。

「投げるぞ。せーのっ」

 広げた網を下にいる奴らに向かって放りなげた。カヨも少し遅れて投げる。漁師のようにうまく広がらなかったが、それでも男たちを捕らえるには十分だった。

 網に捕らえられた男たちは逃れようともがいているが、重りや金具が大量についた網からはそうそう逃れられないだろう。俺は網から外れてしまった男にクーラーボックスを投げつける。

 男の頭に当たるが、気絶させるまでには至らなかった。仲間たちの網を外されては困るので、身を乗り出して釣り竿の硬い部分で男の頭を叩く。男は一瞬頭を抱えるような動作をしたが、すぐに崩れ落ちた。気絶したか確認する間もなく俺はカヨを引っ張って船の反対側にいく。赤い塗料が所々ハゲている船底を滑るようにして下に降り、再びカヨを小脇に抱えて走って逃げた。

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