第十三章 その3

 いつものように学校が終わると走って家にもどる。最近はうまく寝つけず寝不足で体は重かったが、それでも帰る時には走った。視界の隅に海を捉えながらぼくは、ぼくの家へと帰る。

 鍵を開け家の中に飛び込んで、ランドセルを玄関に放り出して居間にいくと父が布団から這い出そうとしていた。


「父さんっ!」


 父は片手で体を支え、もう片方の腕をブンブンと振っていた。何もない空間を払うように。そんな父に足がすくんで、ふすまから部屋に入れなかった。


「帰ってきたか……あいつらが来たんだ。あいつらがっ。こいつらに出ていくように言うんだ。こいつら父さんの言うことを聞きやしないっ!」


 ぼくは息を呑んだ。顔を歪め苦しそうに訴える父にぼくはなにも言えなかった。手足がなにかに捕まったかのように動かない。

「早く……早く……っ!」


 父は小さな雄叫びのようなものを上げると、枕をぼくの方に投げつけた。

 ひっ、と小さく喉から悲鳴が漏れる。枕はぼくに当たらず、壁にあるタンスに当たった。えんぴつ立てがバランスを崩して畳に落ちる。中身がばらけてシャーペンやカッターが床に転がった。


「息子に近づくなっ!」


 父はいまだに訳のわからないことを叫んでいる。ぼくはゆっくりとカッターを拾う。

「父さん……もうやめてよ……」

 ぼくは小さくうめく。指が勝手にカッターの刃をカチカチと押し出していた。


「こいつらを早く追い出せっ」

「もうやめてよっ!」


 ぼくは叫んでいた。カッターの柄を両手で握りしめて父の方に向ける。

「なにを……」

 父はカッターを向けられて目を見開く。


「もう……もう死んでよ。父さん。死んでくれっ!」

「なにを、言っているんだ。お父さんはただ……」

「死んでくれっ。死ね、死ね、死ねっ!」

「おまえは親に向かってなんて口を利くんだっ!」

 驚きより怒りが勝ったようだ。父は家中に響き渡るような大きな声でぼくを怒鳴りつける。

「死んでくれっ! じゃないと、じゃないと……」


 柄を握っている手にぱたっと雫が落ちる。

 ぱたばた、ぱたぱたと水滴は手の甲を伝って畳に落ちる。


「じゃないと……ぼくたちいつか家族じゃなくなっちゃう」


 父の小さく息を呑む音を聞いた気がした。


「父さんいつかぼくのことを忘れちゃうんでしょう? 父さんがぼくを忘れちゃったら……わからなくなっちゃったら……ぼ、ぼくが父さんのことを嫌いに……憎むようになったら……ぼくたち家族じゃなくなっちゃうよっ!」


 ぼくはどこに行っても一人だった。学校でも、家にくるお医者さんや看護師さんも結局ぼく自身は彼らの心には留めてもらえず、ただなんとなくいるだけの存在だった。

 それでも、それでも……父だけはつねにぼくのことを気にかけ、ぼく自身に言葉をかけてくれた。


「ぼくのこと、忘れちゃうくせにっ!」

 叫んでいた。

 喉が熱く鼻の奥が痛くなる。なにかが絡まったように言葉が詰まる。息を細く長く吸い込んだ。

 父に忘れられたら、いや、父もぼくをなんとなく存在しているだけのものに扱われたら……。


「だから、だから……いま死んでくれ。いますぐっ!」

 父を直視できず、目を閉じ力の限り叫んでいた。

 ……気がつくとぼくは父に抱きしめられていた。

「とう……?」


 なぜ父がぼくを抱きしめているのかわからない。ただ、すぐ近くにある父の苦しそうな呼吸音と体温がぼくの体を痺れさせた。


「そうだ、そうだな。俺たちは家族だ。ずっと、ずっと家族だ。大丈夫だ。おまえがお父さんのことを憎むようになっても、俺たちは……」

 父の言っていることを信じられなかった。父は呼吸を乱す。


「お父さんがカナトを忘れるなんてこと、あるわけないだろう」

「ほ、ほんとう?」

「ああ、本当だ。大丈夫だ。お父さんにまかせろ」

 父は震える声で大丈夫だカナトと、ぼくの名前を呼んだ。



 それから父は調子が良くなっていき少しずつ布団からでる時間が増えた。家のこともできるようになった。父の言ったことは本当だったのだとぼくは安心し嬉しくなった。



 一ヶ月後、父は海に転落し帰らぬ人となった。



 目撃者の証言では歩いていた父が、突然よろけて海に落ちていってしまったとのことだった。父の病気では、突然体が動かなくなることがある。だからみんなそれを事故として処理した。

 だが、知っていた。父が切り立った崖を、少しは補整された道であっても手すりと呼べるものは繋がれたロープしかなく、普通の人でも歩きにくい、不安定な足場の道を選んで歩く理由なんてない。


 もしかしたら……と思う時もあった。

 違う。ぼくは知っていた。

 それは空も海も凍りそうなほど寒い季節のことだった。



「ダメッ、やめて……お願いっ!」


 カヨの声で俺ははっと目を覚ました。

 見たことのない天井が視界に入る。俺はなにが起こっているのかと顔を上げようとすると、カヨがいきなり覆いかぶさってきた。

 カヨの重みとぬくもりで、頭の中の霧が晴れていくように、状況を思い出す。


「ば……か。なんで来たんだ!」

「絶対に……ダメなんだからっ!」


 俺の声とカヨの声が重なった。

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