第二章 その6
カワグチさんの声がして俺も隣の部屋をのぞきこむ。隣の部屋は和ダンスが置かれているだけのシンプルな和室だった。きっとここが夫婦の寝室だったのだろう。
カヨは和ダンスに寄りかかって、お絵描き帳を眺めていた。表紙がめくられているお絵描き帳は十分な時間があったにもかかわらず、真っ白だった。
「カヨ、絵を描いてよかったんだぞ」
カヨはじっと俺のことを見返してくるがなにも言わない。描きたくなかったのか、描きたいけど描けない事情があったのか。俺には今ひとつ判断がつかなかった。
「猫は好きか?」
カヨは目をパチパチさせてから、ゆっくりとうなずいた。カヨにここは安全なんだと伝えたくて、少しだけ笑いかける。
「俺もだよ」
俺たちの会話を聞きながらカワグチさんはカヨに、そんな気分じゃなかったのね、と言って奥の押し入れから布団を出した。
カワグチさんはお喋りだった。近所の坂の上にある大きな桜のこと、この街には野良猫が多かったこと。寝室と居間に布団を敷く間にもそんな話をしてくる。
「カヨちゃんと一緒に寝かせてちょうだい。今日ぐらい、いいでしょう?」
敷布団は二組しかない。
「カヨ、いいか?」
カヨは俺に近づくと、俺を見上げてくるが特に反応はない。
「いいよな? 大人と……おばあちゃんと一緒に寝られるなんて滅多にない機会なんだから」
「大人と一緒?」
「そうだ」
カヨは唐突に俺を指差してくる。
「俺? 俺は一緒に寝ない。布団に三人は入らないだろう」
それに俺はカヨと一緒に寝るつもりはなかった。カヨは困った顔で俺を見てくる。
「俺も隣の部屋で寝るから大丈夫だ」
俺が続けて言うと、カヨはこくんとうなずいた。
「いいですよ。カヨと一緒に寝てあげてください」
俺がそう言うとカワグチさんは嬉しそうにタンスからワンピースのパジャマを取り出し始めた。カヨには随分と大きい。俺にも新しいパジャマを渡してくれる。嬉しかったが、俺には小さかった。俺も背は低いが、ご主人はもっと低く、小柄だったようだ。
一度ふすまが閉まり、しばらくしたら開いた。寝室にはパジャマに着替えたカヨとカワグチさんがいた。
カヨは着せられた大きなワンピースのパジャマを、心もと無げに掴んでいる。だぶだぶのパジャマを着たカヨは、大きなてるてる坊主にも見える。明日天気が晴れになるようにと勝手に願いを託されて、困っているてるてる坊主だ。
「おやすみなさい」
カワグチさんはにこやかに言ってふすまを閉める。閉める直前、カヨは不安そうな顔をした。
それでも俺はカヨと一緒に寝てやるつもりはない。俺はカヨと必要以上に仲良くしないようにしていた。
俺も着替えロウソクの火を消すと、目の前が真っ暗になった。外からの灯りは一切ない。布団に潜り込む。
カワグチさんはよくこんなところで、一人で暮らしていけるなと感心した。感染していたら人のいる場所に行くなんて豪語道断だが、いま特別区にも人なんて見かけないから、そっちに行けばいいのに。特別区にある公民館や学校では毛布だって食料だって用意されている。食料は盗まれているかもしれないが、インフラのないところで生活するよりはずっと楽だろう。
カワグチさんはどうしてここに残ることにこだわっているのか。崖に寄りかかっていた死体が思い出される。ご主人のためだ。いや、やっぱりわからない。
海にある死体とともに堤防にあったチラシがまぶたの裏に蘇る。どちらも俺にとっては嫌なものだった。白虹の会。
その名前を知ったのはまだ小学生の時だ……。思い出はうつうつと湧き出てくる。
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