第三章 その1

 ぼくは走って家に帰る。最近父は体調が良くなくて、家にいることが多くなった。家にいるのなら遊んで欲しかったが、どうもそうはいかないようだ。


「早く帰ってあげないとっ」

 息が切れてくる。

 母も忙しそうだった。父が認知症と診断された当初、体調のよくない父に、母も寄り添っていたと思う。だが、いつしか、出かけることが多くなった。


『神様?』

 僕は母に問いかける。神様という言葉は知っている。見たことはない。

『そうよ、神様よ。この世界は神様がお創りになったの』

 いつしか母は神様の話をするようになった。

『神様ってどんな姿をしているの?』


 さも知っているように話すが、母だって見たことはないはずだ。試しにどんな姿をしているのか聞いてみたが、困った顔で首をふるだけだった。しかし神様の話は止まらない。

 いわく、この世界は神様の愛にあふれているのだ、とか。神様のために正しい行いをしなければいけないだとか。


『正しい行いをしないと、最後のセンベツで天国に行けないの』

 母はそうも言った。その言葉にぼくは疑問を持った。だって、もし神様が愛にあふれた優しい存在なら、なぜ父は病気になり、苦しそうにしているのだろう。それにわざわざセンベツなんてものはしないで、最初っから、人間を過ちのない賢く善良なものとして作ればよかったのだ。

 そう思ったが、その話をしている時の母はうっとりと幸せそうだったので、ぼくはなにも言えなかった。


『ねえ、父さん。母さんの言っていることは本当なの?』


 父に聞いてみたが、父は困ったように首を横に振るだけだった。

 そして父は母を寂しそうに眺めていた。

 神様を語る時の母は、ぼくのことも父のことも見ていなかった。いや、それ以外の時も見なくなった。たとえ、顔はぼくの方を向いていたとしても、瞳にぼくの姿が映っているようにはとても思えなかった。もし映っていたとしたら、どうしてぼくの言いたいことや苛立ちに気がつかないのだろう。

 目に見えないものを信じるとは、目に見える……それは家族さえも、瞳に映さなくなることなのか。ぼくは考えるようになった。


「ただいまっ」


 家に着くとぼくはドアを開けて、玄関に飛び込む。大きな声で言っても反応がない。

 ガランとした、空虚な空間がそこにはあった。

 おかしいな……と首をかしげる。

 今日は母も家にいるはずなのに、家の中は静かだった。瞳にぼくのことを映さなくなったとはいえ、ただいまと言えば返事ぐらい返ってくる。ぼくは靴を脱ぎながら、母の予定を思い浮かべる。夕方には勧誘、とかなんとかで家にいないが、今日は学校が早く終わる日だ。ぼくが帰る時間にはまだ家にいるはずだ。廊下を歩いてリビングに行くが誰もいない。他にいるとすれば父が寝ている部屋か。


 そこの部屋を開くと、父が寝ているはずのベッドには誰もいない。目を移すとベランダの窓が開いて、父はベランダに足を投げ出しながらフローリングの床に直接座り込んでいた。静かに外からの風を受けている。ぼくが部屋に入っても気がついていないのか、父はなにも言わないし、振り返らない。後ろ姿からでも、父がぼんやりと遠くを見ていることがわかる。


「ただいま……父さん?」

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