第八章 その2

 目の前にビニールシートがある。近くには海があるのだろう。見えはしないが潮騒は耳に届いてくる。

 俺はそれに手を伸ばす。小さな手。まだ幼く、なにも知らない者の手だ。

 いけない、と止める前に小さな手はビニールシートに触れる。

 いきなりビニールシートの下から手が伸びてきて、細い腕をガッと掴んできた。悲鳴は喉の奥に絡まって出てこない。男が立ち上がって、隠れていた姿が見えた。

 その顔を見て、震え出す。男は怯えているのを知っているのか、いないのか、容赦無く細い腕を掴んだまま歩き出した。

「や……やめ……」

 空いているもう片方の腕を振り回すが効果はない。男はずんずんと歩いていく。海の方へと。泣き出したいのに、叫びたいのに声がでない。唇は虚しく動くだけだった。男が先に海に入り、もうあと一歩で自分も海に入らなければならなくなった。

「い……いや……」

 やっと声がでるようになった。大きく息を吸い込む。

「やめっ!」

 パンッ、破裂音が突然聞こえてきた。

 体がガクッと傾き顔をあげると、目の前に驚いた顔をしたカヨがいた。木目調の箱を両手で持っている。

「カ、ヨ……?」

 どこまでが夢でどこからが現実か、今ひとつわからない。それでもカヨがうなずいてくれたので、ほっと息を吐くことができた。

「救急箱あったのか」

 隣に置かれた箱の蓋を見て言った。そこには救急の文字と、緑色の十字のマークがあった。どこになにがあるかわからないだろうによく見つけられたな、と感心する。

「押し入れ、いっぱい開けた」

「そうか、ありがとう」

 俺の言葉にカヨは少し唇の端をあげる。救急箱を開けようとしているカヨの手の平に、擦り傷があることにようやく気が付く。きっと俺が突き飛ばして転がった時についたのだろう。

「怪我をしたのか」

 カヨの手を取って診ると、アスファルトで擦ってしまった無数の血の線があった。砂粒も皮膚に入り込んでいるが、血は乾き始めている。だがカヨはせっかく乾き始めた血の塊を、俺が視診している最中にカリカリと引っ掻き始めた。俺が止める間もなく、カヨの指先は赤くなる。

「引っ掻くな」

 俺は包帯を取り出しながら言った。救急箱に止血帯はないか探してみたが、一般家庭には置いていないようだ。あるのは頭痛薬、漢方薬、湿布やガーゼだけだ。

「包帯の巻き方知っているか?」

 カヨは首を振る。俺はまずカヨの傷口にガーゼを当て、手からそのまま腕へと包帯を巻いていく。

「前腕に巻く場合には折転帯っていう巻き方がいいんだ。巻く時はきつく巻くんだぞ。とくに血が出ている場合には」

 言いながら実演してみせる。カヨの手と服の上には白い包帯が巻かれて、カヨは不思議そうにそれを眺める。俺は他に包帯がないか救急箱をあさっていると、カヨがさっさと包帯を解いてしまった。最低でも手の平に巻いたところは残しておいてほしかった。俺に包帯を差し出してくる。白い包帯には赤い血が点々と付いていた。

「巻いてくれるか?」

 カヨがうなずく。

「やってくれ」

 血が付いている包帯で傷口を巻くなんて本当なら拒否するところだが、新しい包帯はなかった。俺は仕方なくカヨに腕を差し出した。カヨはおっかなびっくり腕に包帯を巻いていく。物覚えが悪いわけではないが、力が弱く、巻こうと包帯を折り返しているときに起点からほどけていく。もっと強く巻いていいと言って、何回もやり直させる。包帯の巻き方を知っておいて損はない。

 結局、四回巻き直して終了した。ゆるゆるで歪な巻き方だったが、ずっとやっていてもキリがない。

 俺にオーケーを出されると、カヨは珍しく大きな息を吐いた。いつもは息を潜めるように生きているのに。

「ねぇ」

 包帯の巻き具合を確かめて、あとでこっそり巻き直そうと思っている俺に、カヨが声をかけてきた。

「うん?」

「下に……」

 カヨは言うのをためらっている。

「変な匂い……あれ、シタイ」

 俺ははっとカヨの顔を見た。

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