第八章 その3
「見たのか?」
どう考えてもいい状態のものじゃないだろう。カヨは首をふる。
「……開けたらすごく臭くて……すぐ閉めちゃった。だから……手、合わせていないの」
カヨは重々しく、重大な罪を告白するかのように、途切れ途切れに言った。前に俺やカワグチさんから教わったことを実行できなかったことで、怒られるのを心配しているのだろう。
「いいんだ。そんな時もあるし、むしろ死体が臭い時には近づかない方がいいからな」
「どうして?」
「その人の持っている病気が、うつってしまうことがあるんだ」
「おばあちゃんも?」
「いや、カワグチのおばあちゃんは花になったから病気はうつしてこない」
「でも、お花になっても、シタイになってもひとりぼっちになっちゃうの?」
カヨはコスモスの花壇に置いてきた百合の花を思い出したのだろう。少し息苦しそうに言った。
「おばあちゃんは旦那さんと一緒だ。だからひとりぼっちじゃない。それに死体になった人も、ちゃんと埋葬してあげたらひとりぼっちじゃないさ。ここにいる死体もまだ埋葬されていないだけなんだ。そう……そのうち」
それは一体いつのことになるのだろうか。
俺は軽くため息を吐くとカヨがこれ以上傷を引っ掻かないよう、新しいガーゼで絆創膏をテープ代わりに傷口を塞いだ。そして疲れた体に鞭打って立ちあがる。
「いいか、俺がいいと言うまでここからでるなよ」
なんで? と言いたそうなカヨを残して部屋からでる。うっすらとほこりのつもった廊下を歩き、階段を降りる。いつの間にか犬の遠吠えは止んでいた。
階段を一つ降りるたびに異臭が強くなる。いままでも異臭のする家はあったが、この臭さは段違いだ。
一階に降りると、各々の部屋のドアが開きっぱなしだった。どの部屋の雨戸も開けられていて、外の光が差し込んで部屋の様子がよくわかった。
でも雨戸は開いているにもかかわらず、ガラス窓は閉まっている。カヨは野犬が怖くて雨戸を開けた後、わざわざ窓を閉めたに違いない。こんなに臭かったなら、窓を開けておきたかったろうに。各々の部屋は押し入れや、クローゼットが開きっぱなしで、カヨが臭い中、鼻をつまんで懸命に救急箱を探してくれた様子が見て取れた。
俺はその行動を思い浮かべながら、カヨの献身を意外な気持ちで受け止めた。ついさっき怒鳴りつけてしまったので、協力的な態度は表面だけになるだろうと思っていたのに。
どうして……。
俺は真剣な表情で包帯を巻いてくれたカヨを思い出す。平和で物が溢れている時に、カヨのことを評価してくれる人はいなかったのかと、腹立たしくなった。
カヨの過去に想いを馳せるのはやめて、ガラス戸を開けて空気を入れ替えようとテレビの置いてあるリビングに足を踏み入れる。その時、テレビ台に乗っていた一冊の本が目に留まった。チラシもある。それは白虹の会という新興宗教がだしている本と、活動を知らせるチラシだった。
チラシには男の顔が印刷されている。俺はチラシを一枚手にしていた。
「イカルギ……タツヤ」
俺はその男の名前を呟く。白虹の会という新興宗教の教祖の名前をよく知っていた。
いつの間にか母はこの宗教にはまっていた。あるいは洗脳されたのかもしれない。幼かった俺には本当のことなどわかるはずもなかった。
知っているのは、母は見たこともない神様のことを話すようになり、熱に浮かされたように教義の文言を繰り返し、かつ俺にも教えを強要するようになったことだけだ。その頃から貯金通帳の額が目減りしていた。俺がそのことを把握したのは、大人になってからだ。
父は母の変化は認知症にかかってしまったせいだと、自分を責めていた。
「母さんもこんな宗教に出会わなければ……」
クソッ、とチラシを破き、本を思いっきり壁に叩きつけていた。それで気がすんだわけではない。でも大きな物音でカヨが怯えてしまうだろう、と自分を戒めた。
俺はガラス戸を開けて外の空気を大きく吸い込む。
母が白虹の会にお金を注ぎ込んだので家計が苦しくなったのは事実だ。
だが、介護ヘルパーを当時頼まなかったのは単純な理由だ。そんなものがあるとは知らなかったからだ。介護認定を受けていれば、そういったものが福祉制度で格安で利用できることを……。
ちゃんと調べればよかったのだ。だが、あることすら知らないのに、どうやって調べたらいい?
父を診察してくれた医師も看護師も、学校の先生も教えてくれなかった。
ケアマネージャーという存在すら知らなかった。
そういった真綿で首を絞めるような苦しさは、無知やちょっとした行き違いによってもたらされるものだと、人生で学んだ。
俺は外の空気を吸うのをやめて、廊下の奥にあったピッタリと閉じられたふすまを目指した。カヨが一度開いて、すぐに閉じてしまった場所だ。そこを思い切って開けた。
ふすまの部屋は当然だが和室になっていて、畳の部屋にもかかわらず介護用のベッドが置かれていた。そこの部屋も雨戸は閉まっていたが、他の部屋から入ってくる光で中の様子はわかった。その介護用ベッドの上には痩せこけた……、いや腐った老人が横たわっていた。
強烈な異臭にとっさに息を止める。少し吸っただけでも鼻が狂いそうだ。めまいと吐き気がする。慌ててズボンのポケットからしわくちゃのハンカチを取り出して口元を覆った。浅く呼吸をしてみたが、体は異臭が中に入ってくることをきっちりと感知する。もうここでは息は吸わないぞと決めて、さらに一歩部屋に入る。
視認では男か女かの判別さえできない。視界の隅に入り込んでいる服や毛布の柄でなんとなく女性だろう、と見当をつける。腐った死体から目をそらしたまま、カヨの代わりにゆっくりと手を合わせる。
旧時代の死のあり方。
この人は生前ここで家族に見守られて介護を受けていたのだ。だが、隕石が飛来してすべてが一変した。家族は周りが死んでいく様を見て恐怖し、避難勧告がでたときに足手まといになる老人を見捨てて逃げ出したのだ。
古い時代の死などみたくない、と言わんばかりに。
ああ……俺は心の中でうめく。死んでくれと頭の中でまた幼い声が蘇る。
死んでしまえと願い叫ぶ声が。俺は声から逃げるようにして廊下にでてふすまを閉じた。そんなもので声から逃げられるわけでもないのに。
だって声の主は俺自身なのだから。
逃げることもできない。だから、もしかしたらというその思いにすがって俺は生きてきた。
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