第九章 その1
タナシ家 アキラのいつもの殺戮
まずいな。
スーパーマーケットの罠を見て私は焦った。食料品コーナーだけではなく、他のフロアにも仕掛けたにもかかわらず一匹も捕らえていない。
焦燥感はじわじわと足元から這い上がってきた。
もっと、もっと、街中に罠を作らないと。
たまに庭に設置された犬小屋をみかけるが首輪こそあれ、犬自身はいない。もぬけの殻のはずの犬小屋には、枯れた花がこんもりと小さな山を作っている。私はそこからそっと視線を外して、違う家へと向かった。
結局近所に残っているペットなどいなかった。それもそうだ。ここでようやく頭の中が冷静になった。避難勧告がでて、どれだけの日数がたっているのか。住人たちが避難したあとに残されたペットも、逃げ出すか、餓死するかしているだろう。
一体いつまでこの生活が続けられるんだろう。
道路のすみにある乗り捨てられた車のガラス窓に、自分の顔が映り込む。やつれた顔。瞼も腫れぼったく、自分で切っているのでボサボサとしたまとまりのない髪。その姿はもはや以前の自分とは大きく違っていた。
目の下にある傷を撫でると、ガラス窓の自分も同じ動作をした。
一体いつまで……再び浮かんできた疑問を瞼をぐっと閉じて打ち消す。目を閉じることによって、今の自分も視界から消えた。
このままでいいんだ。そう呟いて歩き出す。家に向かう道を物色しながら進むと、かすかに物音がした。はっと息を呑んであたりを見回す。
どこだ?
息を潜めると感覚が研ぎ澄まされていくようだ。再びか細い声がして場所がわかった。青い屋根の家、そこのガレージに放置されていた車のところに足を進めた。そこから微かに鳴き声がする。
屈んで車体の下をのぞきこむと、薄暗い影のなか、一匹の猫が身を縮めながら私の方を見ていた。体は小さい。まだ子猫と言っていいぐらいだ。
口元が緩み、手を伸ばす。子猫は歯をむき出しにして私を警戒した。私はビニール袋に入っているペットショップから盗ってきたうさぎ用のエサを、食べるかどうか試しに差し出してみる。
「ほら、エサだぞ」
静かに呼びかけ、子猫にわかりやすいように見せつける。子猫は興味を示したようだが、こちらには来ない。
それで車体の下ではなく、外のよく見える場所に置くと、その場から離れた。
薄曇りの空から照らされたエサは、飢えた子猫にはさぞや魅力的に映っただろう。子猫は周りを警戒しながらも、そろそろと車の下から這い出てくる。
鼻をひくつかせてエサににじりより、やがて意を決したようにエサにかぶりつく。子猫は味がよかったのか、一口だけでなく、二口目、三口目と食らいつく。子猫が夢中になっているのを確かめると、音を立てないように慎重に歩み寄った。
子猫はふっと顔を上げようとしたが、その前に私の手が子猫の体を掴んで乱暴にビニール袋に放りこんだ。
急いで家に戻り、ネズミのときと同じように気絶させて袋から取り出した。だが、意外なことに子猫はまだ意識があった。子猫の大きな瞳と目があってしまう。
娘との約束が思い出されて体が強張る。一瞬、この子猫を飼ったら娘も喜ぶのでは、という考えがうかんだ。
『お父さん、この子飼おうよ』
娘の声が思い出される。あれはいつの日だったか。夕飯の買い物帰りに娘が道端で寝ている猫を見つけ、それを撫でていた時だ。その猫にはすでに首輪がついていた。それを伝えると、娘はえー、と抗議の声をあげた。
『だってこんなに仲良くなったんだよ? この子もウチに来たがっているよ』
大きな猫は眠そうな顔で大人しく娘に撫でられていた。
……おまえがもうちょっと大きくなってからな。
『あたしこの子より大きいよ』
娘はそう言ったが、その猫はでっぷり太っていて、貫禄は娘よりあった。理屈と屁理屈の応酬にそろそろ疲れてきた。猫を飼うことを許可しそうになる。だか、勝手に許可をしたら妻が怒るだろう。妻は仕事を再開したばかりで忙しい。どうにかこの場を切り抜けようと頭を回転させた。
……子猫。
『子猫?』
……そうだ、子猫だったらいい。子猫から飼えばしつけもちゃんとできるし。
『でも、子猫ってどこにいるの?』
……さあな。おまえがもうちょっと大きくなったら一緒に子猫を探しに行こう。
私はそう言って娘の手を取った。娘は歩きながら不満そうな顔を見せる。
『あたし、もう大きいのに……』
……まだまだ大きくなるんだから。
そう言って娘を引きずるようにして家に帰っていった。
子猫だったらいま目の前にいる。約束だ。約束を……。
だが……。
人も動物もいなくなった街が思い出される。
私は子猫から目をそらし、研いでおいたナイフで子猫の首を切り落とした。
子猫の一瞬だけこぼれた、か弱い鳴き声が耳を打った。
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