第九章 その2

 俺が家の探索をやめて、カヨのところに戻ると、カヨは部屋にあった勉強机の前に立っていた。両手をついて、前かがみで並んだノート、教科書、本などを眺めている。

「待たせたな」

 俺が声をかけるとパッと勉強机から体を離した。

「なにか面白い物があったのか?」

 カヨは黙って首を振る。なぜか気まずそうなカヨの隣に立った。並んでいる教科書を見ると、この部屋の主は小学三年生だとわかった。

「カヨと同い年か。仲良くなれそうか?」

 カヨは会ったこともない少年……部屋に残されたものを見るに少年だろう。その子のことを聞かれて目を丸くし、首を振る。

「だろうな……」

 俺は救急箱を探しまわったカヨを想像し、その姿がさっき塀に飛びついてなにか取ろうとしていたカヨと重なった。

 俺は膝をついて目線をカヨに合わせる。気まずかったが、カヨの黒々とした瞳をまっすぐ見つめる。カヨも少し戸惑いの表情を浮かべたが、目をそらさなかった。

「なあ……さっきなんで俺から離れたんだ?」

 なにか理由があるんだろう、と俺はカヨに問いかけた。

 カヨの顔はすっと青ざめ、恐ろしいものでも見てしまったかのように強ばる。

「ただ、理由を知りたいだけなんだ。どうしてなのか、言わないとわからないこともあるんだ」

 カヨはそれでもぐっと唇を閉じてうつむく。話したらまた怒られると思っているのだろうか。思っているんだろうな。

「なにを言ったって怒らないから、大丈夫だ。言ってみろ」

 世界ではこの約束を守らない大人が多いだろう。だが、相手を知りたいと思ったら感情的になってはダメだ。きっと次は何も言わなくなる。最悪、嘘をつくようになるかもしれない。

 とくにカヨの場合はそうだ。次はないだろう。

 たとえカヨが俺をからかうため、困らせるために離れていたのだとしても怒らないぞ、と決めてカヨの言葉を待った。

 じっ……と重たい沈黙のなか、カヨが唇をもごもごと動かし始めた。

「……ん」

「うん? なんだ?」

 カヨの声はか細く、古びてカラカラに乾燥した糸のように切れやすそうだった。

「み……み、かん」

「みかん?」

 カヨはうなずく。

「み……かん、あったの」

「ああ……そうか、そうだったのか。ごはんが少なくなっているのを心配して?」

 そういえば、この子の前でも食料が無くなりそうなことを言ってしまっていた気がする。カヨはごくわずかにうなずいた。

 この子なりに食糧事情を憂いてくれていたのだ。

「そっか。ありがとう。じゃあここを出たら、一緒にとりに行こう」

 もうあの野犬もどこかへ行っているだろう。もちろんそれなりに警戒はしなければいけないが。カヨはパッと顔をあげて、目を大きくした。

「……うん」

 頬に赤みがさしてくる。少し嬉しそうだった。

 俺はほっと息を吐く。

 カヨの生気の戻った顔で、家にあった宗教団体のチラシを思い出してしまった。

 結局、徒花病に対抗できる薬ができたところで、以前の世界に戻るだけだろう。ああしろ、こうしろと要求してくる宗教。そして、誰かを異物と決めつけ、異物を排除しようとする学校。それが現実だ。そんな世界に戻ること、それが果たしてこの子の幸せだろうか。しかも自身の体の中にある抗体を利用されて戻るのだから。

 チラシの顔を見てしまったせいか、どろりとしたものが、全身に巻きついている感覚が離れない。自分のしようとしていることは、意味のないことのように思えてくる。目線をカヨに合わせたまま聞いた。

「なあ、カヨ。お前は元の世界に、シェルターじゃなくて、街で暮らして学校に行く生活に戻りたいか?」

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