第九章 その3
この子の親はもういないのでまったく同じとは言えないだろうが、シェルターに引きこもっている生活とは大きく違ってくる。
助けてあげて、と懇願してきたあいつの顔が思い浮かぶ。調べてほしいとも言った。助けてほしい、それは徒花病の抗毒薬を作り出して、病魔から人々を守ってほしいということだったのか?
カヨが望まないんだったら、カヨのことをなにも知らないシェルターに行き、適当な理由をつけて保護してもらったほうがいい。小さな子供が追い立てられ、逃げ回り、野宿する生活はつらいだろう。
誰かが対抗できる薬を開発してくれる、などと楽天的な希望なんて持っていない。カヨのように抗体をもつ人間か、生き物が見出されるのを待つだけだ。元の世界に戻るための一端を担わなかった事実だけでも、カヨの心は守られるだろう。
「ん……」
カヨはうつむいて目を逸らした。俺は次の言葉を待つ。
「……粒あん、食べてみたい……」
カヨは重大なことのように、ゆっくりと言った。全身の力が抜けてくる。
「ああ……、そうか。そうだよな」
情けない声が出た。
「うまいもん、食いたいよな……」
「うん」
俺の情けない声に対して、カヨははっきりと肯定の意思を示した。
「でも、それだと学校が始まるんだぞ。学校の勉強はどうなんだ?」
うつむいたままのカヨは唇を一文字に結ぶ。本当のことを言ったら叱られるとでも思っているようだ。たとえ友達ができなくても学校の成績が良ければ少しは自信につながる。だが、カヨの言動を見ると学校の勉強についていっているとは思えなかった。
「どれが苦手なんだ? 言ってみろ」
カヨは顔を赤くして、唇をぎゅっと噛んだ。
「さ……さん、す……う」
赤くなった顔がさらに深くうつむいて、しぼりだすような声が聞こえた。
「そっか、算数か」
分け目しか見えなくなった頭にポンと手を乗せた。
「算数……つまらないか」
ん……と微かな返答。俺はカヨの頭から手を離してどうしようか考えた。カヨと仲良くするつもりはない。だが、ごく普通の生活でさえ、困難が垣間見える子を放っておくこともできない。
大丈夫だ。仲良くすることじゃない。単なる家庭教師だ。単なる教師と生徒。必要最低限のことしか教えないのであれば、懐くこともないだろう。
俺は立ち上がると少年の机から、すまないと思いつつ算数の教科書を引っ張り出した。
「でも、勿体無いぞ。算数ができないなんて」
俺はわざと明るい声で言った。この先になにかいいものがあると勘違いできるように。カヨは顔をあげて、キョトンと俺を見上げる。
「算数っていうのは、みんなが喧嘩しなくなる学問なのに」
「みんな、けんか?」
カヨは不思議そうに繰り返す。
「ああ、喧嘩しないし、仲良くできる」
「みんなが仲良く? みんなと仲良く?」
カヨの瞳が大きく開かれる。
「そうさ。数字のもつ公平性がみんなと仲良くさせてくれる」
俺はカヨの目の前で教科書を振った。カヨは首をかたむける。頭の中にクエスチョンマークが飛び交っているであろうカヨを無視して、パラパラと教科書をめくる。教科書は落書きだらけだった。俺は見づらくなった教科書をあきらめて、代わりにノートとえんぴつをもらうことにした。
タナシ家 アキラの決意
子猫を殺したあと、血の少なさにがっかりし再び動物を探しに山の中に入った。ここは関東の外れなので歩いていけば大きな山にあたる。山で獣道を愚直に探すことにしたが、そもそも獣道を見つけるのが難しかった。あるいは見落としているだけなのか。なによりも山に入っても生き物の気配は感じられなかった。時折、遠くから鳥の鳴き声を聞いたが、姿まではとらえることはできない。それでも歩いていくと山道の途中で、まるでとおせんぼをするように花がこんもりと小さな山になって落ちていた。根っこも吹きさらしで。そこで異様なことが起こったのだとわかった。
かつてはみずみずしく咲いていたであろう花も、いまではすっかりしおれていた。そのうち風に飛ばされてどこかに飛んでいくだろう。無感動にそれをふみわけて進んでいく。結局どの動物にも出会うことができなかった。
明日は自作の罠を仕掛けよう。
もっと、もっと血が欲しい……。もっと大きな獲物が……。
母猫と離れ、それでも必死に生き延びようとしていた子猫の瞳が思い出される。青い瞳にか細い鳴き声。いや、あれは悲鳴だ。
そう、哀れな動物を殺して生き血をしぼりとることも私の大切な日常だった。
だから……これでいいんだ。
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