第十章 その1
その晩の夕食にはみかんが出た。
今日の寝る場所は老人の死体を見つけたのとは違う家だ。歩いているうちに特別区を見つけ、その街に泊まることにした。これなら俺たちがいたという痕跡が人目に留まることはない。
最後に見た道路標識だと、あと三キロも歩けば袖ヶ浦に行ける。どんな街かは知らないが、標識に表示されるくらいだから、開けた街に違いない。お店が多く、食べものが残っていることを期待していた。
どこの家も鍵がかけられていて結局ガラス窓を壊して侵入し、散らかっていた花をどかしてさっさと寝床をつくった。この家の住人は避難する前に死に絶えてしまったのか、冷蔵庫や流しの下に食べ物を残していた。冷蔵庫のものは日が経ちすぎていて食べられなかったが、レトルトカレーやカップ麺は食べられる。それらはありがたくいただいた。カップ麺は悩ましいところだが、ずっと缶詰だと飽きてしまうし、たまにならいいだろう。
その家でカヨが見つけたみかんと缶詰をお膳に並べた。
みかんの皮はまだ黄色と青い部分が入り乱れていて、固かった。その果肉を口に含む。
「……っ!」
「おいしい?」
いつものように缶詰を食べていたカヨが聞いてきた。なにかを期待した目だ。
みかんを四つもいで、二人で二つずつ分けようとしたのだが、カヨが自分の分も俺に差し出してきたのだ。だから俺の前には合計四つのみかんがある。
甘いことを期待していたのでその酸っぱさに驚いた。熟していないみかんというのはこんなにも酸っぱいものなのか。それに品種改良されていないものなんだろう。大きな種があった。
レモンよりは酸っぱくなかったが、ずっと口に入れてもおけず、俺は種ごと飲み込んだ。
「ああ……美味しいよ」
俺の言葉にカヨは得意げな顔を作って、満足げにうなずくと缶詰をまた食べ始めた。
カヨに食べさせなくてよかった。みかんであればビタミンも豊富だから、なんとか食べさせようと思っていたのだが、こんなに酸っぱいのは子供には食べられないだろう。一日に一個ずつ食べようと決めて、残りのみかんを口に放り込んでいった。幸い……と言うべきか、徒花病にかかると食欲の減退がおこるので、一日一個のみかんでも十分すぎるくらいだった。甘いみかんに想いを馳せながら、種ごと口に放り込んでは咀嚼もそこそこに、飲み込んでいく。
「丸は三百六十度?」
夕飯後、風呂上がりのカヨの髪をふいてやっていると、質問してきた。手にはノートを持っている。俺が図形を書き込んだものだ。
「ああ、そうだよ。円ともいう。それを覚えておくと便利だ」
「便利?」
カヨの髪は長くないが、お風呂から上がってポタポタと水滴を垂らしてうろつかれるのはどうにも気になった。
拭いてやるから、その間勉強しろと言うと、カヨはノートを手にして大人しく座った。 仲良くするつもりはなかったが、少ない時間で勉強もさせないといけない。これくらいならいいだろう、と俺はカヨの髪を拭く。カヨの手にはすでにガーゼがなかった。風呂に入るときに勝手に取ったのだろう。傷はもうかさぶたになっているので、そのままでいいだろう。
「そう、例えばピザやケーキを切り分ける時なんかにな」
「……ケーキ」
カヨの声は小さかったが、その声には憧れと羨望が混じっていた。
「そう、ケーキだ。ケーキを切り分ける時に大きさがバラバラだと、喧嘩が起こるだろう? 公平にするためには数字が必要なんだ。例えばケーキを食べるのが二人だったら? 三百六十割る二をすればいい。カヨ計算してみろ」
「……う、ん……百八十」
カヨは余白に計算を書き込む。割り算は苦手なようだ。数字一つ一つを書き込むのにもたついている。だが、九九も覚えているし大丈夫だろう。なによりも俺の目的は計算を早くさせることではない。算数という学問に興味を持たせることだ。
人間、好きになったり、興味を持った分野が一番強くなる。
「そうだ、だから百八十度に切ればいい。四人なら中心角が九十度になるようにするんだ。じゃあ、六人だったら?」
「……ん、六十?」
カヨは計算を書き込み、自信なさげに答える。
「あたり。そうやって計算して角度が等しくなるようにすれば喧嘩は起きない」
タオルで隠れたカヨの頭がうなずいた。
「うん……でも……」
「でも?」
「最初の半分をうまく切れなかったら?」
確かに目視で丸い縁を綺麗に半分にすると言うのは意外と難しい。よくわかっているじゃないか、とカヨを褒める。
「そのときには円周から直角になるように補助線を引くんだ。これは円周角の定理を使っている」
「ていり……」
「そうだ。円周上に直角形を作ってその線をのばし、ケーキの上に直角三角形を描くんだ。直角形なら角度を間違えることはないだろう」
俺はカヨの持っていた鉛筆をもらい、円の中に直角三角形を書き込む。
「こうすると、直角三角形の一番長い辺はちょうど円の半分のところになるんだ。これをタレスの定理という」
「たれす……」
「それから六人で分けるときには、カヨが言った通り一つの角度を六十度にしなきゃいけないが、六十度は目視では難しい。まあ、慣れた人ならできるかもしれないが」
んー、とカヨの唸る声が聞こえる。
「その時はコサインの性質を利用すればいいんだが、コサインは高校で習うものだからな」
「こさ、いん……」
「そうだ。楽しみだろう?」
タオルの下でカヨの首がかたむく。やがてカヨが口を開いた。
「ケーキに線を描いちゃうの?」
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