第十章 その2
こだわっているのはそこかと思ったが、子供にとっては綺麗にデコレーションされたケーキに何かを書き込むのは許し難い行為なんだろう。
「別に鉛筆で書けとは言わないさ。ホイップした生クリームを用意してそれで線を描いたらいい。生クリームが増えるのはみんな嬉しいはずだ」
ケーキの美醜にこだわりのない俺はそれでいいと思ったがカヨは違うようだ。でも……と納得のいっていない声が聞こえる。
「やっぱりケーキに線を描くのはよくない」
よく喋る。野犬に狙われ、俺に怒鳴られ、心が疲弊していてもおかしくないのに、カヨは俺の話に食らいつく。ケーキという言葉が良かったのか、それとも……。
例えでケーキを出したのは間違いだった。ピザにしておけばよかった。
「カヨ、俺が話しているのは実際にケーキを切ることじゃない。いかに丸い物体を均等に切れるか、その考え方を教えているんだ。だから、今はケーキにどうやって線を描くのか、こだわるのはそこじゃない」
俺はケーキに線を描く方法を考えるのが面倒くさくなって、ひとまずカヨの髪をドライヤーで乾かすことにした。電気が使える特別区で良かったとしみじみ思った。
俺は黙々と髪を乾かす。
「もう寝な」
髪はすぐに乾かし終わった。
「ん……」
カヨはどこか不満そうだった。まだ寝るには早い時間かもしれないが、日は落ち外は暗くなっている。街灯の電気はついていない。こんな環境であれば、外から見たらすぐにここに人の所在がわかってしまうだろう。だからとっとと電気を消して寝るのに限る。なのになぜかこの子は不満そうな顔を作っていた。
「一緒に……」
「ダメだ。一人で寝ろ」
カヨはますます不満そうな顔をする。
「それならあたし、ベッドで寝たい」
「ベッド?」
怪訝に思って聞き返す。ここは畳の部屋だ。ベッドなんてない。ふすまを隔てた隣の和室にカヨが寝るための布団を敷いてある。こうすればなにかあった時、お互いを呼び合えるからだ。
廊下を挟んだ向いの部屋はフローリングの部屋だが、古びた家電や段ボールが積まれていて、半ば物置のようになっている。ベッドなんてない。なのにどうしてベッドなどという単語がでてくるのか。
「二階にあったの」
「いつのまに見つけたんだ」
呆れた。俺が寝食をするための準備を整えている隙に、部屋を物色したに違いない。
まったく油断も隙もあったもんではない。俺は舌打ちしたくなった。
「ダメ。お前は隣の部屋、俺はこっちの部屋で寝る。もう決まったことだ」
「誰が決めたの?」
「俺だ」
彼女は唇をすぼめたが、それ以上なにも言わなかった。
「わかったな。俺が風呂から上がるまでには寝ていろよ」
この子の不満そうな顔が和らぐことはなかったが、それを無視して風呂に入った。
服を脱いで、自分の体があらわになると、背筋が寒くなる。自分の胸元や、二の腕の奇妙に盛り上がった皮膚を見るだけで否応なしに拒否反応が襲ってくる。花だ。皮膚の下には花が咲いているのだ。
俺はその歪な膨らみと、込み上がってくる感情を無視するべく、慌てて風呂場に入り、体に泡を乗せて覆い隠した。
やはり風呂はいい。泡を流し自分の体を見ないようにしながら、湯船に浸かるとしみじみと生き返った気分になる。死んでもいないのに。
普段であれば気になる風呂場の黒かびも久しぶりに風呂に入れる喜びのためか、気にならなくなっている。数日間風呂に入れないことの苦痛に比べれば、どうってことなかった。
風呂から上がり、髪を拭きながら廊下を歩く。自分が寝室と決めた部屋に入ると、そっとカヨがいる部屋のふすまを開けて中をのぞきこんだ。
暗い部屋に明かりが差し込んで、掛け布団の膨らみが見える。彼女は大人しく寝ているようだ。それを確認してふすまを閉める。
髪を乾かすことが面倒くさくなり、そのまま湿った布団に潜りこんで目を閉じる。思い出されるのは父のやつれた顔、俺を迎え入れてくれた叔母さん夫婦、忙しくすれ違ってばかりだった恋人。大学から院に入って少しは時間ができるかと思っていたのに、お互いさらに忙しくなってしまい、結局別れてしまった。付き合いたての頃はよく笑ってくれたのに、別れる前になると、怒った顔か、表情のない顔しか見せてくれなかった。
ああ……もう戻れないんだな。失ってしまったもののことが頭の中を駆け巡る。
思い出はすでに彼岸の奥の奥に放りこまれてしまった。元に戻ることはないものたち。
ダメだ。こうやって昔のことを思い出しながら眠ると夢を見てしまう。
父との日々の夢。ダメだ、ダメだと思いつつ、疲労が溜まった体を起こすことができない。
そのままズルズルと暗い方へと意識は引きづられていった。
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