第十章 その3

 ぼくは学校が終わるといつものように駆け足で家に帰った。最近では宿題もまともにできず、授業もうつらうつらしてしまってそれを先生に見咎められるばかりだった。先生に叱られるぼくをクラスメイトたちはくすくすと笑って遠巻きに見てくる。もはや学校も隙間風が吹く、よそよそしい場所になってしまった。放課後、友達と遊ぶなどというのは手の届かない贅沢。

 一心不乱に走って一軒家の連なった住宅街を駆け抜けていくと、家からでてきたおばさんと危うくぶつかりそうになる。

「ご、ごめんな……さい」

 ぼくは息も切れ切れに謝る。家から出てきた人の顔を見てぼくはしまったな、と思った。その家はつい最近お葬式があった家だ。お葬式自体は近所の集会場でやっていた。いつもはのほほんとした雰囲気の集会場が白と黒のお葬式を象徴する幕でおおわれていた。そこから見えない糸で繋がったように黒い服を着た人々が、この家に入っていったのをよく覚えている。まるでそこに死の源泉があるかのように。

 死の影がある家にはなるべく近づきたくなかったし、不幸があった人にどんなことを言ったらいいのか、わからなかった。

 ぼくはぎこちなく頭をさげる。

「あら、いいのよ」

 思いのほかおばさんは明るい声で言った。ぼくは意外な気持ちで顔をあげる。まともに視線があった。

 その人は小首をかしげながら朗らかに笑う。ぼくはいささか、いやかなりびっくりした。近しい人を亡くした人は何日も悲しみに沈んでしまうと思っていたからだ。

「急いでいたのね、ぼく」

 うなずくことしかできない。

「父さんの面倒があるから」

「ああ……そっか。あそこのおうちの子ね」

 あそこというのが、どこかわからなかったがうなずく。父の病気のことは近所でも噂になっていた。

「あたしもね、ずっとお義母かあさんの面倒をみていたのよ。大変だったわ。……ずっと死ぬの待っていたの」

 最後の方はぼくに聞かせないようにしていたのか小さな声だったが、ぼくの耳にしっかりと届く。ぼくはいつのまにか背負っていたランドセルの肩ひもをぐっと握りしめていた。ここのおばあさんはたまに見かけるぐらいだが、車椅子で出かけているとき子供たちを見ると手を振ってくれる優しそうな人だった。

 目の前の人が明るく嬉しそうにしているのを見て、冷たいなにかが体の中を這う。

 ぼくは簡単にあいさつをすると、その場、その言葉から逃げるように駆け出した。

 父を口の中で呼びながら。


 突然、パァンと弾ける音が響き、その音にビクッと体を震わせた。

 目を見開き、大きく息を吸い込む。

 夢を見ていたのか、それとも自分が過去のことをなぞっていたのか、いまひとつわからない。寝ていた感覚はない。

 さっきの破裂音が頭の中をジンジンと痺れさせる。あまりにもリアルでいまここで起こったかのように思えた。

 幻聴だ。

 しっかりしろ、と自分に言い聞かせる。俺はその音の正体を知っていた。それでも背中から汗が噴き出すのをとめられなかった。

 耳をつんざく音。飛び散る鮮血と花。花は血に濡れながら、みずみずしさを失っていなかった。

 俺はそっと自分の鎖骨の下に触れる。さらに二の腕、手首の内側と。本来なら平板なその場所は、奇妙な膨らみがある。皮膚の下はふわふわとしていて中に羽でも詰まっているようだ。触っても痛くはない。

 ありえない感触に叫び出したくなった。

 突然スッとふすまが静かに動く音がして、体が凍りつく。暗い部屋に明かりが差し込んできた。

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