第十章 その4

 タナシ家 アキラのいつもの……夜


 これでいいんだ。これで……。私は呪文のように同じ言葉を吐き続ける。止められない。

 手を頭から離し、祈りのポーズのように組み合わせた。

 手には子猫の温もりと、あまりにも細い骨の感触がまだ残っている。手を広げて擦り合わせてその感覚を消そうとした。

「大丈夫だ。お父さんが守ってやる」

 目の下の傷が疼き、声が震える。

 大丈夫だ。何も傷つていない。何も失っていない。

 妻も……娘も。

「大丈夫」

 次は自分に言い聞かせるように言った。

 夫として父として守っていかなければいけないもの。たとえそれが以前とは違う姿になったとしていても。妻の言葉、娘の願い。そのために動物たちの血を求め続ける。

 妻の言葉。わたしはあなたのそばにいられて幸せだった、そう言った妻の声。

 どうして、どうして言葉を……言葉だけを残したんだ。

 落ち着け、と自分の顔をなでる。少し髭が伸びてきた。娘は伸びかけの髭が嫌いだった。触るとチクチクして痛いからだと。だから私は休日でもちゃんと髭をそるようにしていた。それはこれからも変わらない。


   ❇︎ ❇︎ ❇︎


「泣いているの?」

 カヨの声だ。寝返りをうって隣の部屋の方を向くと、光が目を刺してくる。眩しさに目を細めながら見ると、逆光になった小さなシルエットがあった。

「泣いてねえよ」

 海を思い出す。数日前に見た死体のある海だ。死を懇願する声と共に。

「本当に?」

 しつこい。俺は苛立ちとともにさっき頭の中で聞こえてきた破裂音が実は本物だったのではないかと、心配になる。

「さっさと寝ろ。明日もたくさん歩くんだ」

 ふうん、とカヨは興味なさげに答える。すぐに立ち去ろうとしないカヨが不可解であり、不快だった。

「怒られたくなかったらさっさと寝ろ」

 言ってしまってから昼間のことを思い出す。なにをやっているんだ、俺は。この子にとってはそのことを想像しただけで、身を切られるように辛いはずだ。それを知っているのに……。

 沈黙が降りて俺は反応をうかがったが、予想に反してカヨは小さなシルエットを揺らしただけだ。

「泣いちゃダメよ」

「泣かねぇよ」

 カヨは小さい影に埋もれながら、腕を動かす。目が慣れてきたので、人差し指を口元にそえる動作だとわかった。逆光で表情までは見えなかったのに、なぜか彼女が微笑んでいるような気がした。

 カヨは何も言わず開けた時と同じように、ふすまを静かに閉じる。部屋の中が暗くなって俺は体の力を抜いた。途端に目頭が熱くなる。

 泣いちゃダメよ。

 細く涼しげな声が蘇って、静かにうなずく。そうだな、泣いているわけじゃない。泣くわけにはいかない。

 ぐっと目を閉じ、早く眠りがくるように祈った。


   ❇︎ ❇︎ ❇︎


 私は目を覚ますと、繰り返す。歯を磨くこと、髭をそること、顔を洗うこと、着替えること。それらを淡々と繰り返す。

 相変わらず左目の下には二つの筋の傷があった。消えることはないだろう。

 いつもと違うのは家のことはそこそこに、罠を仕掛けるために必要なロープやエサを袋に入れて外に出たことだ。

 そしてこの街で一番大きな山に向かった。

 もっと大きな獲物を得る。その想いだけを胸に抱きながら。


   ❇︎ ❇︎ ❇︎


 昨日からラッキーが続いているな、と公園の蛇口をひねって水が出るのを確認して、内心手を打った。このあたりは特別区が続いている。

 電柱に取り付けられている表示を見ると、ここが袖ヶ浦というところらしい。

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