第八章 その1
タナシ家 アキラのいつもの思い
私はおなじ日常を繰り返す。押し花の出来具合を見て、ドライフラワーの様子を観察する。
「掃除をしようか。汚いとイヤだろう?」
返答はなかったが、私は気にせず、クローゼットに向かい掃除機を取り出して、床を掃除し始める。リビングにキッチン、廊下と続いた。だが、玄関が終わり近くにある階段を前にすると急に掃除をやめたくなった。ほこりをうっすらとかぶっているので掃除をした方がいいことはわかっているが、どうにもその気にならない。
引き返してクローゼットに掃除機をしまうと、リビングの空気を入れ替えるために窓を開けた。
大きな窓からこれから冬になるであろう、冷たい空気を孕んだ風が入り込んでくる。その空気に触れると、目の下の傷が引きつるように疼いた。これからはもっと寒くなって冬がやってくる。冬はつらいかもしれないが、乗り越えれば暖かく桜の咲く季節になる。
そう、桜が咲く頃に娘はランドセルを背負って学校に行くのだ。娘はランドセルを背負ったら立派なお姉さんになることを信じて疑っていなかった。
次の春だ。私は大きく息を吸い込んで、冷たい風を肺の中に取り込み、季節の流れを堪能した。
振り返って二つの花瓶を見る。花瓶には赤黒い筋や点々が付いている。
花瓶に生けられている撫子と桔梗は、風を受けてゆらゆらと揺れる。
花は元気に咲いていてくれる。私はそれだけで満足だった。
いつもの生活を続けよう。ずっとだ。
そして私は血を求めて外に出た。
❇︎ ❇︎ ❇︎
甲高い声がする。カヨだ。カヨが俺を呼んでいるんだ。俺はハッと目を開いた。
カヨが俺を呼ぶのと、野犬が吠える声で状況を思い出した。枝が折れて落下したのだ。夢を見ていたようだが気を失っていたのか?
視界には紅葉した木と曇った空があった。
「大丈夫だ。すぐにそっちに行く」
俺は顔をあげてカヨに呼びかけた。ゆっくりと立ち上がって体の状態を確認する。腰や尻に痛みがあった。どうやら腰から落ちてしまったようだ。頭も打ったみたいで後頭部も痛い。それでも頭から直接落ちなかっただけマシだろう。俺はそっと息を吐く。
さっきと同じように木登りをして、屋根に一番近い枝は折れたのでなるべく近い枝を選んでそこから屋根に飛び移った。カヨを見ると顔面蒼白になってこっちを見つめていた。カーテンはしっかりと掴んでいる。
そのままでいるように言って、俺は屋根を登り部屋に入ると、手すりにつながっているカーテンを引っ張り始めた。カヨは立ち上がって俺の動きに合わせて足を動かす。
「その調子だ」
顔が引きつったままのカヨは着実に窓に近づいてくる。犬はいまだに吠えているが、登ることに集中しているカヨには届いていないようだ。
「ほら、手を伸ばせ」
手すりまであと二、三歩というところで俺が手を伸ばすと、カヨは素直に手を握ってくる。俺は体を乗りだしてカヨの体を持ち上げ、中に引き入れた。
カヨの足が床についたことを確認した途端、疲労がどっと押し寄せてきた。思わずその場にへたりこみ、目の前がすぅ、と暗くなる。さっき気を失っていたのにまだ足りないらしい。
「だい……じょうぶ?」
座り込んだ俺にカヨは恐る恐る聞いてくる。
「あ、ああ……大丈夫だ。ちょっと疲れただけだ」
立て続けに心臓に悪いことが起こったせいだ。だが、それは言わないでおいた。
「ワンちゃんまだいる」
カヨは窓の外を見ながら言った。俺の耳にも野犬の執拗な声は聞こえていた。
「放っておけ……そのうちあきらめてどこかいくだろう」
言いながら左腕の袖を捲り上げる。そこには犬が食いちぎろうとした咬傷があった。一センチか二センチか、赤い筋を作っていたが、少し乾き始めている。血のにじみ出ている腕には小さなコブのようなものがいくつもあった。そっちのほうが見るのは辛い。
カヨはそっと俺の腕に手を伸ばしてきたが、熱いものに触れたかのように手を引っ込める。
「いた……い?」
カヨは座り込んで両手を膝の上に置く。苦しそうな顔だった。
「いや……少しだけな。これくらいなら大丈夫だ」
だが、これからは全力で深い裂傷は避けなければならない。
じっ、と見つめてくるカヨの視線に気がついて俺は微かに笑った。
「本当に大丈夫だって。それよりもお前に怪我がなくてよかった」
あのまま野犬が喉元に食いついていたらカヨは死んでいただろう。そこまでいかなったとしても、野犬などの病原菌の多いものに怪我を負わされてしまったら感染症にかかるリスクがある。
徒花病に抗体があったとしても、他の病気に強いとは限らないのだから。
カヨは驚いたように目と口を開き、俺の言葉を吟味するように首をかたむけた。
「……ばんそうこう」
カヨは立ち上がると言った。
「うん、それか救急箱があったらそっちを持ってきてくれ」
この体で感染症を心配しても無意味だったが、できる限り血は流さないようにしたい。そのために適当な湿布を貼り付けて、包帯でぐるぐる巻きにしておきたかった。本来の治療方法とは違ったが、この状態では血を流さないようにするのが最優先だった。
カヨはうなずいて部屋から出ていく。
彼女も他人の家をあさるのに慣れている。雨戸が閉まっていて暗いかもしれないが、勝手に開けて光を取り込むだろう。
カヨが遠ざかっていく小さな足音を聞いているとまたしても視界が暗くなった。
すっと意識が闇に飲み込まれる。
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