第七章 その5
真っ暗な視界の中でカヨの悲鳴が聞こえた。カヨが俺を呼んでいる。カヨの声と、父が自分を呼ぶ声とが重なった。その声から逃れたくて、カヨに呼びかけようとするが、唇は驚くほど重かった。いけない、と思いつつも意識は闇の方へと引きずられていった。
◇ ◇ ◇
「なあ……」
「なに?」
ぼくは返事をしながら買ってきた惣菜を袋からだしてお膳に並べる。透明な容器にはベタベタと値引きのシールが貼られている。今日はコロッケも値引きになっていた。コロッケは人気なのか、値引きが始まる前に売り切れになってしまうので、今日は残っていてラッキーだった。このコロッケにはトウモロコシの粒が入っている。食べている時にプチプチとトウモロコシの粒の食感が楽しめるのだ。しなびたコロッケでも十分に美味しい。
「ねずみ見なくなったな」
「うん……だったら良かった」
本心だった。ねずみがうるさいうるさい、これじゃ寝られない、などと言われていてぼくもいい加減うんざりしていた。それがなくなるのなら万々歳だ。
「やっぱり猫を飼ったおかげだな」
ぼくははっと顔をあげた。父はにこにこと笑っている。
「……おはしとってくるね」
ぼくは父の言っていることを肯定も否定もできず立ち上がって、居間からでる。
「ずっとおまえの後ろについているんだな。賢い猫だ」
背後から父の声が、誰に向かって言っているのかわからない声が聞こえた。思わず振り返って足元を見る。そこにはもちろん猫なんていない。あるのはささくれだち、日に焼けた畳だ。父はぼくのほうを見ているような、見ていないような目で、にこにこ笑っていた。
猫はぼくの後ろについてまわっているようだ。それをぼくは見ることはできない。その猫は父の中だけにある猫だからだ。幻覚で、父が発症した認知症だとよくあることらしい。そうお医者さんが言っていた。認知症にもいくつか種類があることを知った。
お医者さんはたまにぼくの家にやってきて父の様子を見てくれる。看護師さんも。
そうだ、大人たちはいつも父の心配をし、ぼくに注意すべきことを伝えてくるがそれだけだ。ぼくは、ぼく自身は彼らの目に映っていないように、ひたすら用件と注意事項を言ってくる。
大人の目にはぼくのことは映らない。難しいことを言われるたびに、大人たちから壁を作られているように感じた。
ぼくのことを思ってくれるのは父しかいなかった。だが、父は父で、具合の良い時と悪い時の差が激しく苦しんでいた。そんな父に自分の暗い胸のうちなど言えるはずもなく、息苦しさだけが募る。
父は具合の良い時は布団からでて、家のことをしてくれるが、悪い時には一日中寝ているし、たまに知らない人がいるとぼくに訴えてくる。
そして父の体の動きは徐々に緩慢になっていった。お医者さんは直接言わなかったがぼくはわかっていた。父がもう昔のようにぼくと遊ぶことはできないこと。それ以上に病状は悪くなる一方だということを。体を起こすだけで、苦しくしんどそうな父を目にするたびにぼくは、ぼくの内側はヤスリで削り取られていく。
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