第七章 その4

 立っていてもしょうがないと、カヨを促して庭に回り込む。カヨも大人しくしたがってくれる。

 入り込んだ家はどの窓も雨戸が閉まっていた。外側から雨戸を開ける方法など知らない。野犬が塀の外をウロウロしている中では、のんびりと休めない。俺はどうしようかと視線を巡らせると、二階の窓が開きっぱなしなのに気がついた。幸いなことにその部屋の近くには二階にまで伸びた大きな木があった。赤く紅葉した葉っぱから見て、桜の木だろうか。

「カヨ……」

 俺が静かに呼びかけると、離れた場所に立っていたカヨは大人しく来てくれた。俺はほっと心の中で息を吐いた。このまま拒絶されたらどうしようかと心配だったが、ひとまずは大丈夫なようだ。

「木登り、したことはあるか?」

 犬はまだあきらめていないようで、唸り声が塀の向こうから聞こえてくる。

「……ないよ」

 短い返答だ。

 カヨを持ち上げひとまず低い枝に座らせると俺が先によじ登った。俺が上の枝に登ってからカヨを引っ張りあげる作戦だ。カヨは俺に手を掴まれながら、小さい体を駆使してなんとかよじ登っていく。

 屋根の高さまでカヨが登ってくるとまず俺がさきに屋根に移ろうとした。その瞬間、野犬が突然ギャンギャンと吠え立て始めた。俺自身驚いたこともあるが、コートの裾が引っ張られてバランスを崩す。俺はわっと声をあげて、屋根の瓦で膝を打った。痛みにうめきながら振り返ると、カヨが片手は幹を抱え、もう片方の手はコートの裾を胸のところで掴み引っ張っている。

「は、離し……」

 本当はカヨの手を振り払って膝をさすりたかったが、そんなことをすれば彼女はバランスを崩して落ちてしまう。俺は衝動をぐっとこらえてカヨに訴えるが、カヨは俺の言葉が聞こえていないのか、さらに強く引っ張ってくる。

 このままだと自分が落とされるのではとヒヤッとした。

 全く別のところから命の危険を感じた俺は、ゆっくりとカヨを説得するように言った。

「あのワンコだったら入ってこないさ」

 息を吐きながら言ったが、カヨの手が緩むことはない。仕方なくさきほどまでいた枝に戻る。子供と大人、俺たちが乗った枝はミシミシと嫌な音を立てた。

「大丈夫だ。両手で幹にしがみついていろ」

 俺はカヨの手をそっとほどくと、その手を幹に握らせた。

「家の中に入ったらカーテンの布か何かを放り投げるから、それに掴まって登ってこい」

 本当ならカヨを抱えて屋根を登れればいいのだが、左腕は犬に噛まれて痛みがあり、右腕はカヨを抱き抱えていたので疲労が激しい。そんな中、バランスの悪い足場でカヨを抱えて歩くのは不安があった。

 カヨの瞳の中には、怯えた色が残っていたが、小さくうなずいてくれた。

「よし、よし」

 俺はカヨの頭を軽く撫でると、再び屋根に登った。野犬はいまでも吠え狂っている。うるせぇよ、と心の中で罵って一つ一つの瓦を踏んで登っていく。

 開けっ放しの窓から身を滑り込ませると、すぐにリュックを放り出し、カーテンを引っ張る。ぶちぶちと金具を飛び散らせてカーテンレールから引き剥がした。もう片方のカーテンも同じようにする。その二枚のカーテンを結んで長さを調整すると外に放り投げた。カーテンは枝の先に届く程度だった。

「そのままこっちへ。カーテンを掴め」

 掴んでくれればあとは俺が引っ張りあげればいい。だが、カヨは小さく首をふるだけだった。その唇が小さく動く。……こわい、と言っているのだろう。

「大丈夫だ。公園のアスレチックと同じだと思え」

 野犬が吠え狂っている以外は同じだろう。俺はそう思ったが、カヨは首をふるばかりだ。

 ギャンギャンと吠えている野犬にも、動こうとしないカヨにもしだいに苛立ち始めた。瓦を一つあの野犬にぶん投げたら気持ちもスッキリするだろうか。だが、と俺は噛まれた腕の痛みを感じて思いとどまる。きっと野犬の命は長くないだろう。そう思うと怒りは瞬く間にしぼんでいった。俺はため息を吐くと、短くなってしまうのは残念だが、カーテンを手すりにしっかりと結び、再び屋根を降り始めた。

 バランスをとりながらカヨがいる枝に戻る。怯えているカヨを幹から引き剥がして、枝にはいつくばっていけと指示し、俺はカヨを通すために近くの枝に移った。カヨはそろそろと枝を這うようにして進み屋根に乗り移ると、四つん這いになってカーテンのところまで行き、それが唯一の命綱のようにぎゅっと胸元で握りしめる。カヨがカーテンを掴んだことにほっとしながら屋根へ移ろうと、カヨがいた枝にひょいっと体を乗せた。

 その瞬間、べキッと大きな音を立てて枝が折れた。

「っ!」

 浮遊感は一瞬で、体は落下していった。

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