第七章 その3
スッと背筋が寒くなった。慌てて道路に飛び出す。首を巡らせて姿を探すと……いた。
右手の一軒先の塀に飛びついている。生い茂った木の枝になにか取ろうとしているのか、手を伸ばして跳ね飛んでいるのだ。ひとまず、無事なことにほっと息を吐いて呼びかける。
「カ……」
その時、三軒先の道路からゆらりと動く影があった。カヨは気がついていない。影は伸び、すぐにその姿を現した。犬だ。痩せていて背が高い。
「カヨッ!」
俺が叫ぶのと同時に、カヨも犬に気がついた。飛び跳ねるのをやめて、犬の方に顔を向けている。
「カヨッ。こいっ!」
俺の声は届いていないのか、カヨは動かない。ただ塀に手をついて、じっと犬の方を見ている。いや、動けないのだ。
俺が駆け出すのと、犬が走り出すのは同時だった。俺の方がカヨに近い。だが四本足の動物、しかも飢えている動物の足は速かった。
野犬は一気にカヨとの距離を詰めていく。
「カヨッ!」
野犬が一気に跳躍する。
俺は手を伸ばしてカヨの肩を掴むと自分の方へと引き寄せ、もう片方の腕でカヨの喉元を庇った。野犬が俺の腕に食らいつく。
カヨを突き飛ばしたのとバランスを崩して倒れ込むのと同時だった。犬は俺にのしかかりながら頭をブンブンと振った。
このままだと腕が引きちぎられるっ。腕が熱くなるのと同時に頭がカッとした。
「……このクッソ、ッタレがぁ!」
噛まれている腕を犬のほうへと一気に押し戻した。牙が緩んだ一瞬、犬の腹を蹴り上げた。野犬は腕から離れ、口から胃液らしきものを吐きながら道端に転がる。
俺は野犬の様子を確かめるのはそこそこに立ち上がると、上半身だけ起こしているカヨを小脇に抱えて走り出した。
ひたすらに走り、腕と足が疲れてきたところで、門扉が開けっ放しになっている家が目に入ったのでそこに飛び込んだ。玄関まで続く石畳の上にカヨを下ろす。
「どうして俺から離れたんだ! どうしてっ!」
カヨの肩をぐっ掴むと、気がつけば大きな声を、いや怒鳴っていた。カヨの目が見開かれ、唇はわななき、顔が青ざめていく。
しまった、とカヨから手を離した。カヨは力なくその場にしゃがみこむと、頭を抱えてなにかを呟き始めた。
……ごめんなさい、ごめんなさい。
それは呪文のようにひたすら繰り返される。よく見れば頭を抱えている手も肩も震えている。顔は膝に埋もれていて見えない。
最悪だ。あんな風に怒鳴るべきではなかった。するべきことは野犬に怯えているカヨを、安心させてやることだったのだ。
俺はすぐに自分の間違いを悟った。こんな小さな女の子を怖がらせるなんて。
誰か俺を殴り飛ばしてくれ。
カヨはいまだに呪文を繰り返している。それが世の災いから自分を守る唯一の盾のように。
俺は片膝をついて、なるべく穏やかな声がでるように努めた。
「カヨ……すまなかった。ごめんな」
カヨはビクッと肩を大きく震わせたあと、呪文を止めた。だが、顔はあげない。俺はこれからどうしたらいいのかわからなくなった。冷たい沈黙が息苦しい。
不意にカシ、カシ、とアスファルトを引っ掻く、連続した音が聞こえてきた。
あの野犬だ。考えるより先に立ち上がると、開きっぱなしの門扉を急いで閉める。
グワッと犬の顔が真正面に迫った。犬の息と唾液が顔にかかる。閉め終わる直前、あの犬が飛びかかってきたのだ。その勢いと重みで門扉が開きそうになる。足の腱がピリッと痛んだ。俺も体当たりするように門扉を押すと、すぐに金具をかけた。
野犬はもう一度飛びかかってきたが、開くことはない。野犬の憎しみのこもった黒い瞳と目があった。
一歩、二歩、と後ろに下がって野犬と距離をとるが、野犬はあきらめずに何回も飛びかかってくる。その度に、門扉は金属が擦れる嫌な音を立てた。腹を蹴った後に拳銃を使うべきだったな、と冷静に思った。ここで使えば当たるだろうが、弾も残り少ない。撃って哀れな犬を殺すよりかは、あきらめてどこかにいくのを待っていた方がいいだろう。
顔にかかった犬の唾液を拭いながら振り返ってカヨを見ると、カヨは立ち上がり、胸を両手で押さえて怯えた顔をしていた。
「カヨ……大丈夫だ。犬は入ってこられない」
カヨは疑うような目で俺を見上げるだけで他の反応はなかった。
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